無意識日記々

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優しく、さりげなく

『帰りが遅くなってもきかない 細かいこと』の一節について、もうひとつ重要な点がある。聞けばわかる通り、『こまかいこと』の『と』が、『愛想もいぃ』の『ぃ』や『評判だし』の『し』や『干渉して』の『て』や『こない』の『ない』に較べて音の高さが半音上がっている事だ。まぁよく覚えておいて欲しい。いや、多分一回か二回しか蒸し返さないけどな。

で、だ。ここから所謂「女声パート」に移る。言っても歌ってんの全部ヒカルだから便宜上の呼び方でしかないが。「女役パート」でも、いいかな。ドスを利かせた低い声からか細く儚く高い声に移行してこう歌う。『あなたの となりに いるのはわたしだ けれど・ わ・たし じゃない』

最初に聞いたその瞬間は『貴方の隣に居るのは私だ』で一瞬切れるものだから、リスナーの頭の中にはその刹那、"そこそこ美人で愛想がよくて気が利く女の子"が"尊大な俺様"に寄り添っている姿が思い浮かぶのだが、次の音、即ち『けれど わ・たし じゃない』が聞こえてきた瞬間、その一文が叙述トリックである事を思い知らされるのである。

その語の並ばせ方の巧みさについては論を待たないであろう。『貴方の隣に居るのは私だ』と『私だけれど私じゃない』の2つの異なった文章を『私だ』の重なる部分で繋げてその落差でリスナーをギョッとさせる。その手腕たるや。誰もが
この歌を初めて聴いた時にこの場面で「おぉ…」と驚いたのではないか。

そのメインの技巧に加えて、サブの技巧もまた非常に巧みだ、というのが前回(3回前だっけ)からの話の続きだ。叙述トリックは、いきなり披露してはあざとすぎてなかなかその落差を存分に味わって貰えないものだ。出来るだけ受け手をその物語に入り込ませて注意を引き付けてから披露するから効果がある。

それを担っているのが前回触れた倒置法の『帰りが遅くなってもきかない 細かいこと』の一文なのだ。聴き手はここで一度倒置法に触れている。つまり、この場面で「この歌は、メロディーをちゃんと最後まで聞かないと歌詞の意味がわからないかもしれないな」と理解するのだ。ここから聴き手は、一文々々に注意深く耳を傾けるようになる。文節が一瞬途切れても無意識的に「…で、何?」と続きを聞きたくなる、確かめたくなる心理に誘導されていくのだ。その匙加減の絶妙さたるや。

倒置法で注意を引いておいて、しかし、この最初の女声の場面で扱われる技巧は倒置法ではない事にも留意しておこう。ただもっと広い意味で、しかし漠然と、聴き手は「文章は最後まで聞こう」という姿勢にいざなわれて、「2つの(定型的な)文章を重ね合わせてコントラストを劇的に描く」というトリックに辿り着く。だから驚く。説得力がある。

ここらへんの、ただいいアイデアが出てきたというだけでなく、その場所まで優しくさりげなく導く丁寧さこそが"Pop Musicianとして"の宇多田ヒカルの真骨頂だ。プロは受け手の気付いていない所で決定的な仕事をしているものなのである。どうだ、まいったか。