無意識日記々

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その大きな看板には何も書いては

照實さんが「音楽無しの生活は考えられません」「家業ですからね」と言っていて、実際、女系ではあるが竹山澄子藤圭子宇多田ヒカルと三代続けて音楽家、それも母と娘の2人はともに不滅不到の日本最高売上記録をもつ家族だというのに、私はどうもこの家系が「家業を継いでいっている」という感覚を持てなかったのはちょっと不思議だったが、さっき漸く気がついた。ここに「屋号」がないからだ。

菓子屋でも呉服屋でも何でも、次の代が継ぐのはただ同じ内容の仕事だけではない。「名前」も継ぐのが普通なのだ。そういうモノを売る家業なら物理的実体が在り、そこに屋号を記した看板が掛けられているからそういう言い方もできるが、音楽は無形文化財だから…と反論しようかと思ったんだがこれも例えば歌舞伎の世界では親から子などに「名」を継ぐ事で「家業」を継いでいっている。血の繋がりがなくとも、落語や相撲の世界もそうだ。「家業」というのは、何よりも先に「家」があり、それを代々継承する証として家の名、即ち「屋号」が在る。逆に、それが無ければ、如何に同じ職に就き親ソックリのプロセスで同等以上の結果を出そうが、「たまたまそうなっただけ」感が残り、つまり私は「家業を継いでいる」感覚になりきれなかったのだ。屋号=看板がなくては、それはどこまで行っても個人の集合体で、「親と子が似た」とまでしか言えない。更にこれは、親子である必要はない。「あの人とこの人が似た」というだけの事だ。

即ち、家業とは意志である。ならば屋号は意思表明だ。藤圭子宇多田ヒカルも、家業を継ごうと思って歌手になったのではなく、本人たちも言っているように、やっているうちにそうなったのだ。それは運命であるかもしれないし、であるならば深い々々「業(ごう)」ではあるだろうが、「家業」ではない。徹底した個人主義の集合が、遺伝子と教育の賜物で今の結果を得たのである。ならば「家」というモチーフは、この家系、或いはこの家族にそぐわないのかもしれない。同じ仕事をしながらそれは家の意志ではなかったからだ。

「家」の不在。しかし、ヒカルの歌詞には…ここから先は、熱心な読者なら予想可能だろう。次回かいつかにこの先の答え合わせをするとしようかな。