無意識日記々

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新曲2曲の"定評"を想像してみる。

私は、音楽は「力が無い」からいいんだ、と思っている。正確には、「暴力的に強制する事が無い」という意味だが。

どれだけ偉大と言われる音楽家の作品であっても、誰しも「つまらない」と言える資格を持っている。これが誰かに強制される事はない。幾ら讃える人々が多かろうが「モーツァルトは退屈だ」とか「ビートルズなんてただの雑音」と言っていい。

これが、スポーツなんかだと無理がある。実績は絶対的だ。記録を出したり勝ち負けがついたりする。白鵬が偉大な相撲取りではない、と幾ら強弁しようとしても、無理がある。偉大という言葉の定義を疑わない限り、白鵬は力士として偉大だ。勝ってるからね。

音楽が権威になったら終わりだ。王様は裸だと言えなくなったらそれはもう音楽ではない。誰に強制される事もなく、心に感じたままを伝えていい。ポール・マッカートニーがどれだけ熱唱していようが「おっさんの歌何言うてるか全然わからへん」で切り捨てていい。それこそが望ましい。


困った事に、この国でそのテの「強制力」が歴代いちばん強かったのが宇多田ヒカルなのだ。今更『First Love』のどこがいいのかわからない、と言っても「何言ってんの」という顔をされる。よくない。音楽に確固たる評価とか定評なんて要らない。毎日新しいリスナーに聴かれて、気に入ってもらったりそうでもなかったりを繰り返すのがいい。そんな中でヒカルの曲が愛されていくのなら、それは非常に嬉しい事だ。音楽に自由があって初めて、愛されて嬉しいのである。

花束を君に』と『真夏の通り雨』の、そういった"一般的な評価"とやらを見定めるような試みは、したがって、それによって定評を押し付けようという腹づもりが見え隠れするようでしたら積極的に排していきたいところだ。あクマで、全体の中での位置付けをする事でこの相当に、非常に、並外れて魅力的な2曲に対する理解を深める一助になって欲しいという願いから、仮に"定評"と呼ばれ得るものを構築してみよう、という試みである。間違っても、それを押し付けようだなんて思わないように。


という訳で2曲の"一般的な評価"が今どこらへんに落ち着いているかを考察してみよう。

花束を君に』に関しては、朝ドラの主題歌というのがいちばん大きく、特に優しくなったと評判の歌声に対する賛辞は寧ろ昔の歌唱力に対するそれよりも比重としては大きい気がする。曲としては、誰しもがあっさり認める名曲というよりは、毎日の中でじんわりとよさを味わえるような、派手さは無いが音楽界の良心そのもののような安心感がある。慣れてくれば口遊むようにもなってくるし、「大絶賛はしないが、時を経ても宇多田は相変わらずいい歌を作って歌っているなぁ」というのが最大公約数的なものいいになりそうだ。

真夏の通り雨』に関しては、いい曲か退屈か、好きか嫌いかを通り越して、「死と向き合っている歌」であるという事実自体が衝撃的で、即ちお母さんの事を歌ってる歌だよね、という感想が前面に出ているようだ。好き嫌いを超えて歌に宿る情感と慟哭に圧倒される、というのが正直なところではないか。

2曲とも、「宇多田に期待する超特大のヒット曲ではないが、今の邦楽市場に"圧倒的な良心"を携えて帰ってきてくれたのが嬉しい」という感じ。もちろんかなり売れているのだが、それよりも、今の市場でどこらへんに位置付けられるべきかという点をそれなりに明確にした功績が大きい。「宇多田ってこんなヤツ(だったよね)」という風に思わせてくれた&思い出させてくれた、と。まだ楽曲が人を超えてひとりでに歩き出すまではいかず、曲自体より宇多田ブランドの名が帰ってきた事自体に意義を感じさせる段階にある、そんな2曲だというのが今のところの包括的な評価である様に、私には思われるのだった。