無意識日記々

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三度び「謳う自由と疑う自由」

この日記は、読み物としては啓蒙からぐっと離れて、娯楽に近いものとして書いているつもりだ。常々、「自分で読み返してみて面白いと思えている限りは続く」と言っているのも、他者に何かが"伝わる"かどうかを第一目的としてはいない事の顕われである。勿論、それが目的のように読める内容も含んではいるのだけれども。

そんなattitudeなので、政治ネタを扱う事は少ない。極力排除している、と言うより、読み返してみたらつまらない可能性が高い内容になりがちなので、自然と候補から外れる感じである。従って禁忌ではない。ただ、それが「表現の自由」と関連するとすれば話は別となる。何故なら、こういったBlogに書く内容を外側から制限されるかもしれないとなれば、存続自体が危ぶまれるからだ。

今の日本は、政治的にはまだまだそこまでは行っていない。しかし、なぜだか普通の一般人の方から、表現について圧力をかけるような風潮が、インターネットのみならず増えている。これはどういう事なのか。

第二次世界大戦までは、この国は完全には民主制が機能していなかった訳で、それぞれの戦争は極一部の人間に責任を押し付けておけばよかった。天皇が、内閣が、政府が、軍が、新聞社が、それぞれ暴走したと言っておけばよかった。しかし今の制度下では、最も権力を持っているのは一般大衆である。クーデターでも成功しない限り、民主的に選ばれた人間が権力を持つのだからなかなか言い訳がきかない。

つまり、この、日本語を最も使う国は、自分で自分の首を絞める可能性を持っているという事だ。確かに、多数決が主体の方法論では、少数派には言いたい事が山ほど出てくるだろうが、問題は、本来の民主制の主旨である"少数派にも配慮した"体制を維持できなくなる事だ。つまり、言論の自由表現の自由、多数派に抗う自由である。

私が前から言っている"謳う自由"とは、そのまま表現の自由である。そしてもう一対、"疑う自由"とは、表現が攻めなら守りの方、多数派の意見、即ち宗教的政治的多数派の思想信条に抗う自由、受け入れないでもいい権利を保証する事である。今の日本は、前者にも検閲や規制が強すぎるように思うが、そちらはまだまだ耐えている。問題は、後者が守られているか否か以前に、意識すらされていない、蔑ろにされている現状の方だ。法的に保証される前に、大衆レベルでの圧力が増している気がする。それに対しては、何としても抗わなければならない。