無意識日記々

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顔と掌:1人は星を、1人は泥を見た

で、昨日の写真、「道路に挨拶されたので私も挨拶」。道端に落ちてる手袋を挨拶に見立てて自分の掌と同じにひとつのフレーム内に収めて挨拶をしかえす、という「見立て」とその見立てに乗っかった「反応」という二段階のセンス・オブ・ユーモアを重ねた作品。ここに、約一ヶ月ぶりで何呟いたらいいかわかんないけどラジオの再放送も始まるしこちらに注意を向けて貰う為にも取り敢えず何か挨拶しとかなきゃ、という今のHikaruの動機が加わった、というのがまぁ普通の解釈。それはそれでよし。

私が最初に感じたのはそこではなかった。Hikaruのユーモアのセンスは大概まるっと入ってくるのでそれはいいとして、頭に先に浮かんだのは「こいつに顔はあるのか?」という事だった。つまり、Hikaruが見た手袋の主は誰なのか、と。

「不特定多数」という言葉があるが、要するに「誰だかわからない」、つまり顔がない或いは顔が見えない存在という事だ。Hikaruは「特定多数」の相手には慣れている―というか経験豊富である。万単位の観客の一人々々の顔がちゃんと見える事を知っている。一方、顔の見えない存在―何かの組織名とか団体名とか―、もっと上げれば市民とか国民とか民衆とか、そういった"存在"が、掌だけを出してきて挨拶をしているのか、それともフレームの外にはよくよく見知った顔が在るのか、その2つで、解釈はまるで違ってくる。

顔のない手は恐怖の象徴だ。その手がこちらにいつ伸びてくるかと怯えている。顔のある手とはこの後握手、いや手を繋いで出掛けてもいい。拒絶する掌か迎え入れる掌か。Hikaruはこの、道に落ちている手袋の顔が見えただろうか見えなかっただろうか。冗談ではなく、これによって今後の運命が左右されるだろう。恐怖症というものは、こういう所に顔を覗かせるのである。