無意識日記々

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「宇多田ヒカルの酔いも甘いも」

先週初めて「Hikki's Sweet&Sour」(略称何にしようか…「Hikkiの酔いも甘いも」だから暫く"甘酔"でいくかなー…ちょっとわかりにくいか、ならS&Sかな、これなら間違えない。思わず"Sweet&Sour Hour"とか言ってしまいそうになる―15年後と混ざってるがな…(笑))を聴いて驚いた、というか今といちばん違うな、と思ったのは、喋りが"バイリンガル向け"な事だ。

いや、熊淡でも日本語と英語で喋ってるじゃないか、と言われればそうなのだが、今の熊淡での喋りは「日本語しかわからない人」にも「英語しかわからない人」にも楽しんで貰えるように喋っている。しかし、甘酔の方は、「日本語と英語の両方がわからないと伝わらない」喋りが随所に出てくる。即ち、熊淡は日本語話者と英語話者の両方向け、甘酸はバイリンガル"のみ"向けになっている。両方とも同じく、日本語英語両方を駆使した"如何にもInterFMらしい"雰囲気の番組だが、想定されているリスナー層は全く異なる。

私も最初は「今んとこ途切れ途切れの日本語を繋げれば意味が通じる程度の英語しか喋ってないからご安心を」とかなんとかツイートした覚えがあるが、曲を紹介した後は両方聞き取れないと出来の悪いトランシーバートークみたいな印象を与えるような配分になってゆく。第2回も、出だしは挨拶という事で両方で同じ事を言っているのだが、トークが続くにつれてただのチャンポンになっていく。早い話が、喋る時に深く考えていないのである。何より、リスナー層が限定されている―InterFMリスナー、という解釈も有り得るが、「みんなラジオ聴いてる時って何してるの?」と言ってる位だからラジオを聴く習慣なんて当時のヒカルには(今のヒカルにも)なく、恐らくこの感じは、インターナショナルスクールで友達と喋っているのの延長線上にあるのだと思われる。15年後との違いはそこから来ている。(ただの推測だが断言してみた)

今は、沢山のリスナーの顔が見えている。名前を覚えたファンもひとりやふたりではないだろう。あの人も聴く、この人も聴く、といった事が、意識的に考えなくても頭の後ろの方にいっぺんに思い浮かべられて行動の判断基準が形成されていく。「宇多田ヒカルの性格」は、そうやって進化と変遷を遂げてきたのだ。

良くも悪くも、周囲の目線や空気に敏感な人だ。その上で、物事の良し悪しを純粋に自分の感性で判断できる。これの両立は恐ろしく難しい。流行を追う人は、他者が居ないと何に価値があるのかわからない。総てを自分の目線で判断する"山奥の芸術家肌"の人は、大衆の気持ちを掬い取るなんて無理だ。ヒカルはその両方が出来たのだ。小学生の頃にメタリカのブラック・アルバムを聴いていたのは、自分が気に入ったからというだけでなく、それが時代を引っ張る音だったから。10歳の頃にR&Bにハマったのも、勿論自分が心から共感出来たというのもあるが、周囲がそういう空気になっていたからだ。だから、日本でも時代をやや先取りした感じ(この"やや"が大事なんだ、先取り過ぎてもいけない)で、時代の空気にハマって大ヒットした、ともいえる。そこらへんは、本人も無自覚無意識的なバランスの上に成り立っていたのだが、本人もいうように、「何も知らない、怖いもの知らずで無邪気な」ヒカルに触れられるのが、この甘酔なん
だと思えば、、ヒカルもこの番組聴いてみるべきなんじゃなかろうか。確かに、耳から火が出る程恥ずかしいかもしれないが、自分の15年分の成長を実感するにはちょうどいい。もっとも、彼女の見ている風景は特異だった事を想起しよう、ヒカルは、いつどの年齢の時にも、あらゆる年齢の"私"と共に在る感覚でいられるというのだから。熊淡も、15歳で甘酔をやっている自分からの助言の上に成り立っているし、甘酔も"未来からの助言"の上に成り立っていた、という事なんだが、ここら辺まで来ると我々の理解を超え始めるので今宵はここらへんにしておくか。詰め込み過ぎたな今回。