無意識日記々

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熊淡待ちの冬の朝

んもー、結局こうやって放送当日の朝を迎えるのか。どういう気分になればいいのやら。

Hikaruの肩に力が入ってるのはよくわかる。みんなわかってる。今でも、イタリアに出来た新しい家族をどう守ろうか常に考えている筈だ。私が最初に思ったのは、イタリアの大家族、みんなが目立ちたがり屋だったらどないすんべという事だった。つまり、地元の取材大歓迎、うちらの家族が新聞雑誌に載っている!こりゃめでたい!宴だ宴!というノリだったら杞憂に終わるんちゃうんかと。寧ろそういう無邪気無防備の方がタチガワルイとも言えるかもしれないけれど、大家族の気質として、怒る時も笑う時もぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー騒がしかったりしないのかな、とな。しんみりした大家族ってあんまり想像がつかない。単純に、黙ってると注意がこっちに向かないので、自分からアピールしていくのが習慣になっていくのだ。これがひとりっこだ核家族だとなると、家族の視線が自分に集中し過ぎて鬱陶しい、ちょっとはそっとしておいてくれたまへ、となる。育ってきた環境が違うから、とはよく歌ったもので、それによってどのような状況を好むかはまるで違ってくる訳だ。

だから、多分、世の中にはヒカルがあんな風に人の視線に疲れてるのにピンと来ない人も多いだろう。歌い終わった後に「どうしてみんな私の方を見ているの」となるのは、至って自然な事なのだが、どちらかといえば笑い話だわな、うん。

なので、ファンとしてはバランスが難しい。期待をかけすぎてもプレッシャーになるし、かといって全く関心を払わないとやる気を削がれる。誰だってそうなのだが、Hikaruの場合、例えばTwitterだと150万人もフォロワーが居たりして、スケールが大きすぎる。そしてそのほぼ全員が、メディアを通した彼女をイメージのベースとして持っている。まずHikaruが最初に格闘しないといけない相手は、その作り上げられた自身の虚像なのだ。

まだそんなものが出来上がってない頃のSweet&Sourは、ほんに気楽に聴ける。あの頃に戻れとは言わないし、そういう人生を築き上げてきたのだからそれにはそう対応するとして、なんだろう、貴方の居ない間も貴方を想っている人たちにとっては、ラジオの一時間ってほんの一時間でしかなくて、その一時間以外の時間をどういう気持ちで過ごせばよいのかを示唆させる為の一時間でもあるのだから、そこだけクリアすればいいというのでもなく、それを含めた毎日の時間の流れ総てが貴方と私(たち)の物語なのだから、言わば、総ての文脈を包含した物語全体が貴方の作品なのです。だから、ラジオの一時間がどれだけ楽しい時間だとしても、小皿にのった懐石料理が一品運ばれてきているだけで、確かにその一口は美味しいし、みんなその一口の為に日々頑張っているんだけど、それで満腹にはならないし、必要な力が漲ってくる訳でもない。気持ちの問題といってしまってはそれまでだけれど、何だろう、つまり、結論からいえば、Pop Musicianとしての生き方が
成立しない状況に入りつつあるのかな、という気はする。さてこの話の続きはいつになるやら。