無意識日記々

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2本ノ足に2足ノ草鞋、手には2ッの…

三宅Pがヒカルと出会ったのが1997年の秋。14歳の頃だな。この時既にスタジオ慣れしていてテキパキと段取りを指示するヒカルの言うがままだったという三宅Pが笑える。我々の業界ではこの上ない御褒美ですけども。

やはり、U3やらcubic UやらCubic Uやらで相当の経験を積んでいたのだろう。14歳にして結構なベテランだった訳だ。その段取りのよさも相俟って、土日だけでも一年でアルバムが完成したという事だろうか。

ふと考える。今ヒカルが週2日の作業でアルバムを作ったらどれ位かかるだろうか。

ウィークデーに普通に学校に行っていた、というのの最大のデメリットは時間が足りない事だがメリットもある。歌詞を書く際に「私は普通の生活をしている」と思える事だ。感覚的には違ったかもしれないが、端から見れば当時14〜15歳のヒカルは「週末にバイトに通う女子高生」みたいなもんだっただろう。バイト先がレコーディングスタジオの。やっぱり、これは歌詞を書く時の"自信"になる。世間からズレてないのだ。

以降のヒカルの歌詞も、別にズレてはいなかった。Flavor Of LifeがヒットしたのもBeautiful Worldが受け入れられたのも、花より男子エヴァンゲリオンを楽しむ若い人たちの感性をしっかり把握していたからだ。(勿論前提にはヒカル自身の各作品に対する愛着があるのだが)

しかし、ではその感性の読みに"自信"があったかといえば、週末ミュージシャンだった頃に較べれば不安が大きかったのではないだろうか。その不安を払拭するプロセスが、First Loveの頃は相対的に少なかったのではないかとみる。

人間活動期は、そういった"ズレ"に対する不安を纏めて払拭する為の期間だった―とするならば、次に帰ってきた時には随分とズレに対する不安は払拭されているに違いない。最初っから。

で、そのまままたフルタイムのミュージシャンに戻るとすればどうなるのか。いやみんな他のミュージシャンもそうやって生きていて皆の共感を得る歌詞を書けているのだから気にする事はないように思うが、First Loveの大ヒットの秘訣のひとつに、「クォリティーは滅茶苦茶高いのに目線が一緒」というのがあったとすれば、次にヒット曲を書く場合やはり同じ所に戻ってきた方がいいのではないかという結論に辿り着く。いや、辿り着いてみる事も出来る、と言った方が正確かな。

そこで最初の設問に戻る。今ヒカルがパート・タイム・ミュージシャンをやったらどうなるだろう。何か他の事にも打ち込みつつ、音楽もやる、みたいな。たっぷり一年かけて曲作りとレコーディング。実現するかといえば難しいが、31歳のひとりの女性の等身大がそこに映り込む方法論としては、悪くない気がした。

ヒカルはやっぱり、浮き世離れし過ぎた所があったんだったな、と甘酔を聴きながら思う。適応。激変した状況に合わせて、それに対して最適な振る舞いをする能力。それが抜群に高い人だから、あの立場に居る時はあのように振る舞う。ならば、2つの違う立場を行ったり来たりしながら、そこに自己を見いだしていくという"いつものやり方"を、今度は2014年バージョン、或いは2015年バージョンなんかで見せてくれるだろう。『学業と音楽は両立できる。なぜなら手は2つあるから。』とFirst Loveの頃のヒカルは答えたそうだが、今のヒカルはその右手と左手の上に、何と何を載せるのだろうか。家族と音楽、とかかな? まぁまだまだわからないさ。