無意識日記々

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ほんものとにせもの

「本物と偽物」というキーワードが最近勝手に目につくので、それについて書いてみようかな。

偽物、ニセモノというのは文字通り「似せ物」であって、何かを参照して作られたものを指す。本来それだけの話で、それ以上の事はない筈なのだが、人の創作物を偽物呼ばわりすると恐らく名誉毀損になるのだから、何らかのネガティブなイメージが本質的にまとわりついている事は疑いがない。

似せる、という行為はただのコピーとはちょっとばかし違う。本当に"本物"と寸分違わず作られたモノは最早偽物と呼ぶのは憚られる。実際、外から見て区別のつかないコピーは、有り体に言ってしまえば本物である。

美術品の贋作があれほど問題になるのは、それが普通は本物と区別がつかないからだ。私なんかはそれならそれでいいじゃん、と思ってしまうが、鑑定家が躍起になる程、真贋の鑑定というものは重要視される。

「似せる」という行為は「似る」という状態とはかなり異なる。そこに作為があるかどうかだ。

宇多田ヒカルは常に「本物」として扱われてきた。後続の人が「あれお前のパクリやん」と糾弾されるからには、ヒカルはオリジナルとして扱われているのだろう。確かに、ヒカルが何かの偽物であったとして、それが何に似せたものなのかはさっぱり定かではない。

理由はあっさりしていて、ヒカルが何かを作る時、特に何かを参照したり参考にしたりする事がないからだ。何故彼女がそんな風なのかといえば、特にあれがやりたいとかこれがやりたいとかいう欲望が、創作の事前にないからだろう。

人は夢を見る。「売れたい」とか「お金持ちになりたい」とか「あんなバンド組んでみたい」とか。その時人は、その時売れてる人、お金持ちな人、バンド組んでる人を参照する、参考にする。自分を彼らに似せていこうとするのだ。

ヒカルは、特に音楽活動をするに際して、そういったものがない。日本語でアルバムを制作したキッカケは、今回三宅Pが語っていたように、彼がそう提案したからだ。そしてその時、ヒカルは日本語の歌に関して「ママの歌以外まともに聴いた事がない」と言っていたそうな。そんな状況で最初に作られたのが、STINGのShape of My HeartをフィーチャーしたNever Let Goだった訳だ。恐らく彼女がこの時点で参照したものがあるとすれば、邦楽以外の日本語の経験であった事だろう。

何かを目指していなければ、何に似せる事も出来ない。本物というのは、実はただそれだけの事である。ヒカルの、ある意味での「やる気の無さ」が、最終的に皆が本物と崇める創作物に結実する。面白いものである。