無意識日記々

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死生観その5

死生観というからには死と生の話だ。が、はじまりとおわりというものを、私たちは知らない。生まれた時の事なんて誰一人覚えていない。稀に産道を通ってきた事を記憶していると言う人が居るが、その時点での話ではない。この世に生を受けた瞬間と"それ以前"の話だ。気が付いたら今ココに居た、というのが真実だ。いつからだなんてわかる訳がない。死はもっとわからない。生き返った人が本当に居るか居ないかはわからないが、少なくともあなたも私も"おわり"を知らないだろう。

なのに"死生観"なんてものが語られ得るのは何故かといえば自明も自明、他者が存在するからだ。他人が生まれてくる場面や亡くなってゆく様子を知る事によって、「自分もああやって生まれてきたのかなぁ」「自分もああやって死んでいくのかなぁ」と想像力をはたらかせる事が出来るのだ。

即ち個にとっての死と生は想像の産物でありいわば錯覚みたいなものだ。他者の存在があって初めて意味をもつ。つまり、はじまりとおわりは他者との関係性の中で生まれてくる。はじまりとおわりのない世界は孤独である。そういう名前がつけられている。

だから、実はヒカルがはじまりを他者から与えられているのは、そちらの方が自然なのだ。それは、本来与えられ合うものなのである。

ならばおわりとは一体…? ここが問題になる。多くの才能ある人たちが"自らの引き際"について語る。ちょっと話を勉学や仕事に絞ろうか。入学も卒業も、時には落第も他者に与えられるものだ。自分で勝ち取るといえば聞こえはいいが、結局は自由とは言わない。たったひとつ自由といえるのは自主退学だけだろう。職も同じである。自主退職以外は、そもそも需要がなくなればどうにもならない。幾ら労働力や作品を売りたくても買ってくれる人が居なければどうしようもない。勉学も仕事も、その世界で他者に認めてもらえなければ、そこに入れないし、生きていけない。

今の"自由"という言葉の使い方はやや卑怯だったかもしれない。こういう使い方をしなくなるのはひとえに自由の欺瞞性によるものである。やや卑怯、というのはオブラートにくるんだ。直接書くなら、その意味で本当の自由とは自殺以外に有り得ない。この結論を導く以上その自由は欺瞞である。

それは違う。自由とは無限の広がりではなく、ひとつに決まる事だ。点なのである。その錯覚は、我々が世界そのものではない事から生ずる。言葉の生まれる場所である。

話が難しくなり過ぎた。10年経って、ヒカルが初めて"休みたい"と言ったのが人間活動の始まりだった―という風にまとめるのを、ヒカルは嫌うだろう。ヒカルは、頑なに「これは充電期間とかではない」と言い張った。ただの言葉の選択の話に聞こえるが、言葉の生まれる場所から一端終わらせてみる場所まで線を引こうとしていたのだからそれが大切だったのだ。これはおわりではなく何かの…何かの願い。そう言うしかない。残念な話だが、お母さんはそこを知らなかった。貴方は知っている。自由の生まれ変われる場所を。

次にどうするべきかも、自然に生まれてくる筈だ。それを母と呼ぶ。父の話もするのが死生観その6である。