無意識日記々

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死生観その6でもない話

私は父親になった事がない。その為、気の利いた話はできそうもない。ならば母の話は一層無理な気がするが、どう転んでも母親にはなれないので気楽なのかもしれない。それなら本質を突く話も出来るかもと。父親になら、なれる。血が繋がっていなくとも、父親役になら就ける。全う出来るかどうかは別として。だから切ない。こればっかりは、どうしようもない。

なので、面白くも何ともないかもしれないが、父性の話をしよう。母性が与えるのが安心ならば、父性が与えるべきなのは恐怖だろう。世界は広い。思い通りにはならない。いつ死ぬかわからない。それを教えるのは父の、父性の役目だ。フェミニストさんたちから文句を言われそうだな。別にそれを誰が与えてもいい。ひとりで安心と恐怖を与えられるならそれでいい。親が2人とも男性だったり2人とも女性だったりするなら、どちらか一方がその役割を担うとか。やり方は色々ある。話を引き伸ばしても面白くなりそうにないので要約すると飴と鞭だな。

母性は子をひたすら守る。食事を与え睡眠を与え体温を与え居場所を与え安心を与える。何がいいかを教える役割だ。父性はつまり、何がいけないかを教える役割である。これは本質的な誤謬である。正解が1つしかない問いを作る事は出来るが、正解でない答が1つしかない問いはない。間違いは常に無限だ。「はいかいいえで答えてください」と問うても「あっちょんぷりけっ!」と答えるだけだ。明らかに間違いである。つまり、父は子に何かを教えきる事はない。ただひたすらに、有限の経験から、生に失敗は許されないこと(一度死んだら死ぬこと)を、教えなければならない。その"完璧"の為の誤謬。「生きる」を構成するのは「生きたい」だけでなく「死にたくない」も、なのだ。恐怖は一生残る。例外無くトラウマである。しかし、それによって守られる、支えられる生命もあるはずだという信念が父性だ。

恐怖は怒りを生む。修羅の道だなぁと思う。地球が小さくなればなるほど、余計な機能だなぁと思う事が多い。それでも、相変わらず人は、一度死んだら死ぬのだ。それを知っていなければならないし、教えなければならない。私はいい父親になれるだろうか。そんな機会が来るとして、だが。


やっぱり面白い話にはならない。照實さんについて何か言うべきかなとも思ったが、自分が父親になったとしてあんな娘を持つようになったらちゃんと叱れるか甚だ自信が無い。情けない。せめて赤信号は渡るなくらいは身に付けさせてあげないと。嗚呼、この不安が、恐怖をつくるのか。それもまた命の印。