無意識日記々

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命の時間

人間活動中には色々と過去の偉業を振り返る日記にしようかな、そうなるかな、と三年半前は思ってたんだけど、何だか結局未来志向が、沈んだり浮かんだりしながらも基調となっている。自分がモーツァルトの研究家ならそうした(そうするしかない)んだろうが、今を生きている人が相手となると今しか出来ない事をしたくなるもので、ひょっとして私、自分の寿命を超えてHikaruのキャリアが続いていくとすると、彼女の一生を一度も総括出来ず仕舞いかもしれない。それはそれで喜ばしい事か。次の新曲が楽しみだ、と呟きながら朽ち果てていく―悪くない。ならば自殺はしないだろうし。

それはそれ。これはこれ。


斯様にHikaruの人生は長く、その中では音楽以外の仕事にも一流が見いだされるかもしれない、ことに、小説家・作家としては、ペンネームがとっくに決めてある事もあり、絵本の翻訳や、絵本の執筆や、二冊の本の編集など文筆業にも少しずつ少しずつ才覚をあらわしてきているとあっては、そちらの活動にも期待が持てると言って差し支えないのだけれど、私はある理由によって、結局はHikaruは音楽活動から離れての種々については、副業というか寄り道というか、人生の本流とは呼べないのではないかと、常々思っている。

ある理由とは、「18歳〜24歳の時期に音楽に打ち込みすぎたから」だ。

数学者は25歳までに才能を開花させる、というのはなかなかに揺るぎない格言で、それまでに頭角をあらわしていない人間はそこから先も芽が出ない、というのが相場になっていて、ことあるごとに40歳でブレイクしたワイエルシュトラスの名前が、教科書にすらフィーチャーされるのは、それが本当に珍しい例外だからで、悉くこの経験則は事実に裏付けられている。

それがどうしたという感じだが、真性の創造力はそこらへんまでに完成されるというのに私は異論はない。アートという名がつく場合、或いは芸能と名のつく場合、創作・表現活動であれば何でもいいが、それが"技術的に理解"されるまでに、25歳から何十年もかかる。これがスポーツであれば、寧ろ25歳を中心として前後がピークの期間、というケースも多いのだが、どの分野を例にとるにせよ、控えめに言って、この時期までに何を見せられるか、というのは実に大きい。何故なら、この時期を過ぎると、我々は自分自身を止める事が出来なくなるから。心も身体も頭も何もかも、総ては「私」を追い越して過ぎてゆく。そこに乗って、それまで行き着けなかった所への旅路に入るのが「大人になる」という事なら、まさにその時期にHikaruは音楽に没頭していた。折角入学した大学にも行かず、折角結婚した相手と暖かい家庭を築く事もせず、前後に類を見ない創作能力を発揮して18歳〜24歳という「そこからの人生の加速を決定付ける」時期に
音楽を選び続けた。そのまま26歳になるところ―「This Is The One」の制作終了までに至る。かなりぶっ飛ばした。


この含意は重い、と私は思う。この時期をこう過ごした以上、Hikaruの加速は音楽に沿って止まらない。ありていにいえば、これからどれだけ怠けようが名曲が生まれ続けるかもしれない。25歳を過ぎてから音楽に打ち込み始め身も心も総て捧げて創作活動に没入している人が仮に居るとしよう。彼・彼女がどれだけ努力や研究や勉学を重ねても、ひかるの鼻歌にはかなわない。彼・彼女がいちばんよくわかるはずだ。結局ウィンブルドンでは優勝できなかったイワン・レンドルのように、遠くに栄冠を眺めながら自らの手足はそこに行き着かない。運命の車輪に導かれる大人とはそういうものだ。

だから私は、もう結局、Hikaruには音楽を期待する。世情がHikaruを何か社会的な活動に駆り立てるかもしれないが、その時私は「歌を歌っていた方がいい」と呟く。如何にHikaruが社会的な分野や文学的な分野や科学的な分野や政治的な分野で実際に力を発揮しようとも、それは「音楽を創造していなかった期間」に過ぎず、“真の威力”は休みを与えられたままだ。


何が幸福かは知らない。だが運命を受け入れるのは悪い事ではない。だから人間活動という"悪あがき"が必要なのだろう。かといって曲を作っていない訳でもないのだろうが。なので私は復帰を心配してはいない。Hikaruの中で踏ん切りが、諦めと決意のハーフ&ハーフ・ミックスが透明で純粋であるかどうかだ。それが情熱の源泉たる聖域と繋がっているのなら、私たちの見る物語はなかなかに"悪くない"ものになるだろう。その前に国が滅んでいたりしていなければ、いいのだが。命は飛翔するのだから。