無意識日記々

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「母になる」の2つの意味

EVAやモチベーションや才能やタイミングやらの話を一通りした上で、また一周忌の話題に戻る。

私が重要視しているのは今年の1月の件だ。直後の9月10月に休むのはわかる。しかし、一旦間を置いてまた1月に、という流れは、今後もまた「ぶり返す」ことがあるのではないかと不安を抱かせる。果たして本当に時間は最高の癒し手となってくれているのだろうかと。

エヴァンゲリオンは母との、父との、家族との物語だ。家族になっていたかもしれない人々や、家族のような人々との物語である。シンエヴァでそこのところをどこまで描写してくれるかはわからない。総スルーかもしれない。創作家とは要するに小さい頃の事をよく憶えている人たちの事だ。小津のローアングルはこどもの目線の高さである。つまり、創作家にとって母は、時には父も、とても大きな存在(のまま)である。小さければ小さいほど世界の総てだ。

EVAの場合、父とは暗い部屋で会話するだけだが母との対話は世界を吹っ飛ばす事で形成されている。これもこどもの目線である。母が居なくなるのは世界が無くなるのとおんなじだ。

光が1月に何を思い悩んだのかは未だにわからないし、今後語られる事もないかもしれない。しかし、未だに母が、仕事に影響を与えるほど大きな存在である事には変わりがない事は伝わってきたとは言っていいのではないか。一緒に悩んでみたいものだ。

1年前の出来事は、人間活動の意義を書き換える位のインパクトを持っていた。だから、この1年の間に垣間見れた光の沈黙の数々はそれより前とは異質なのかもしれない。改めて、「復帰は2年後になるか5年後になるかわからない」という言葉を噛み締める。

桜流しからすると、シンエヴァとともにHikaruの新しい作品は届けられる。モチベーションがあろうがなかろうがこの仕事は「やるしかない」。内容によっては、母との関係性に何かヒントを与えるものになっているかもしれない。たとえ新しい作品が成されなくとも「嵐の女神」があるからそれで必要十分なんだけれども。

「母になる」。それは、新しく自分が子をもうける事かもしれないし、娘が母に似てくる事かもしれない。どちらの意味ともとれる。結婚もしたし、したがって、これがキーワードになるだろうか。萩原一至が初めて子を持ったとき、「自分は今まで世界の半分しか知らなかった」と書いていたのが未だに印象的だ。子を抱いて初めて湧き上がる感情もあるのだろう。私もそれを知らない。一方で、大人になるにつれ父や母に似てくる事は、理屈では考える事が出来る。

しかし経験の有無を言っていても仕方がない。ただ光が、気持ちの整理をつけているのか、そもそも整理が必要なのか、という点からして定かではない。わからないことだらけだが、その中から私たちが背中を押せる何かを見つけ出す。それしかない。押せなくても、さすることくらいはできないもんかな。