無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

そんな言葉はないのだけれど。

さて一周忌ウィークの〆とEVA祭開始のタイミングだから何を書こうかと思ったのだが急にFlavor Of Lifeについて書きたくなったので何の脈絡もないまま書き始めてみる事にする。

やはり印象的なのはWILD LIFEの曲順である。「一生この2曲の歌手と言われても構わない」とまで言い切ったAutomaticとFirst Loveの次にFoLBVが来ていた。私なんかは「おぉ、大ヒット曲を立て続けに。何て贅沢なんだ。」くらいにしか思っていなかったのだがヒカルにとってはPop Musicianとしてのプライドと矜持を示したものだったらしい。つくづく、この曲とそれに対するヒカルの気持ちが理解出来ていないなぁ、と痛感した。

総てをすっ飛ばしてあっさり表現すればこの曲は「売れたから凄い」のだ。いや、曲としても勿論いいに決まっているのだが、この曲は何よりもまず"有名であること"が第一に来ていて、曲としての評価は実際はそんなでもない。

何度も書いてきた通り、UTUBEの3強はFirst LoveとGoodbye HappinessとPrisoner Of Loveだ。知名度だけならFirst Loveに引けをとらないFoLBVなのだが、人気があるかというと「かなりあるけどそこまでじゃない」という感じ。

また、ここ6年のオフ会で、この曲がキッカケで宇多田ヒカルのファンになりましたという声を、私の憶えている限り一度も聞いていない。忘れてたらごめんなさい。これは、異常ともいえる。

しかし、だからヒカルは嬉しかったのかもな、と今振り返って思う。自分の熱心なファンになって貰うよりは、もっとライトなお付き合いを、音楽の購入者としたいんじゃないかと。まぁディープとライトのどっちがいいというんじゃなく、「私に心酔されてもなぁ」という気持ちは強いだろう。「ちらっと小耳に挟んだんだけど今度の宇多田の新曲いいね」―こう言われるのがいちばん嬉しいんじゃないか_そんな風に思えてきた。

つまり、ヒカルは曲をヒットさせたいのだ…というとちょっと違うかな、もっと包括的な、この世界が持つ理想像として、「宇多田ヒカルの曲はヒットしてくれていた方が"すわりがいい"」というのがあるのじゃないかと。

つまり、ヒカルがどうか誰がどうかという以前に、或いは以上に、世界の(もっと小さなスケールでいえば、世間の)感情としてそれが存在するのではないか。Flavor Of Lifeの素晴らしい所は、「あるべき人があるべき場所に収まった」その原動力を提供した事にある、と。


という事は、ヒカルはヒットする事に対して、どういう感情を持てばいいのか、或いは、どんな風に感情を表明すればよいのか。

私はどうも、貪欲に売りたい売れたいのなら、事前に「この曲はヒットして欲しい」と言っちゃってくれた方がいいんじゃないかと、思うのだが、どうなんだろう。悩ましい。テレビに出ていきなり「CDたくさん売りたいですね」と言い放ったら本当にそうなったのだから言霊という訳じゃないけど、その、なんだ、売れなかった時に悔しがる事も時には必要なんじゃないかとな、思うんだな。

すわりのよさ。それが今でも求められているか、というのがここ最近のここのテーマだったのだけど、実はみんな「次を聴いてみないとわからない」というのが正直なところなのではないか。周りの様子を窺っている、とまでは言わないが、宇多田ヒカルって―確かに昔の歌手だけど一時代がもう過ぎ去ったとまでは―曲がよければ、また最前線に戻ってこれるんじゃないの、いや出来ればもっと大きなタイアップでもあればねぇ、みたいな。そういう意味では、テレビドラマ「HERO」のキャンシー不在に対する態度と反応は参考になったかもしれない。あの曲がどうのというのではなく、宇多田ヒカルという名前に対する人々の位置付けである。

その昔FoLBVの事を私は「中興の祖」と表現した。クシャナかよ、と突っ込んでくれる人が居たら嬉しいが、それは兎も角、今度は「再興の祖」となる曲が必要になる。売れましょう、売りましょう。それで落ち着くべきところに落ち着けるというのなら。きっと今、皆宇多田ヒカルに何を期待しているか、そもそも期待をしているかどうか、そこらへん「わからない」が正解だから、こちらからねじ込んじゃえばいいんじゃないの。うん。