無意識日記々

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NDK-ねぇ今どんな気持ち?

さて一周忌だ。特に何もないのかな。実際のところ、宇多田ヒカル的には今年はFL15発売だけで十分なのだから今年いっぱい音沙汰無しでもさして不自然ではない。何かを期待したくなってくるのは、幾つかの記事の憶測も影響なくはないが、基本的には三宅さんと照實さんからの思わせぶりなひとことの数々があったからだ、わな。

かといって、水面下というのは何が起こっているかわからない。予定の相次ぐ変更、突発的なアクシデント。そういった情報がこちらに入って来ない訳だからそれはもう仕方がない。何か匂わすような事を言った後にどんがらがっしゃんがあったとして、今度はそちらを匂わす一言を、とはならない。せいぜい、いつのまにやら軌道修正された言葉がぽんと届くのが関の山だろう。


今夜は序の放送があるのか。Beautiful WorldがTV画面から流れてくれば感慨深くもなるかもしれないが、尺的にも無理だろう、特別TV編集版でもない限り。何だかあの歌がなくてもTV番組として成立しますよと言われているようでガッカリではあるが、実際そこまで作品に寄り添いきった歌でもないので仕方がない。それを言うなら残テも魂ルフも似たようなもんなんだし。

「なんだかお母さんみたいな曲だなぁ」―Beautiful Worldをフル尺で初めて聴いた時の私の感想だ。実際、このあとヒカルは母性を感じさせる曲、例えばStay Goldなんかを発表している。序の段階では母性云々といっても映画のメインテーマとしては出て来ないから、こういう「ほんのり匂わせる程度」のBeautiful Worldはちょうどよかったと言えなくもない。

ひかるは今日をどんな気持ちで過ごすのだろう。どの国に居るかで「今日」の時間帯は多少幅が出来るが、取り敢えず日本時間で考えておくとして、誰かと共有したいと思うだろうかそうでもないのだろうか。1人でゆっくり過ごしたいのかな、誰かに気持ちを打ち明けたいのだろうか。こういう時に夫婦っていいもんだな、と思うのだけれど、今2人はどんな感じなのだろう。

幾ら考えたって答は出ない。ただ一言、「どうなの?」と当事者に訊く、それだけである。


これだけ書いてきておいて何なんだが、「宇多田ヒカルの母」としての藤圭子だけではなく、主役である歌手としての、一人の人間としての藤圭子を見失わないように。自戒を込めて。しかし、大切なのは今生きてる人間の方だ。今生きてる人間に過去を悼む気持ちがあるのなら先人をまた弔おう。そこだけ踏まえておきます。