無意識日記々

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ハナウタダ

前回は小難しい事を書いたが、音楽家なんてのはそんなに偉い職業でもない。アートとして成立するのはほんの一握りの中の更にほんの一摘み。大体の人たちが沢山の大衆に向けて音楽を提供していて、生活における効果は微々たるものだ。逆説的かもしれないが、着うたというのは初めて歌が生活の中で"役に立った"一例だった。歌の違いで着信者がわかるとか便利だもんね。

それ以外では、せいぜい誰かの鼻歌になるくらい。医者や消防士のように人の命を救ったり司法や警察のように社会の秩序に貢献したりといった側面は微々たるものでしかない。勿論、あの時あの歌に救われた、とかの事例はやまほどあるだろうが、どれもたまたまそうなっただけの副次的な(しかし極々必然的な)効果だ。それを狙って音楽が奏でられる訳ではない。

しかし、誰かの鼻歌になるというのは作り手側としてはガッツポーズものだ。宇多田ヒカルが小さいこどもがぼくはくまを歌っている所に出会したら小さくガッツポーズするだろう。容易に想像できる。それお姉さんがつくったんだよと一緒に歌い出すところまで妄想しよう。

アートはしばしば"思想や感情の表現"として定義されている。これは、著作物の要件としても採用されている。何らかの思想や感情に喚起されての表現があったり、表現に感情や思想が喚起されたりと因果は種々だが。

鼻歌は気分の表現である。鼻歌といっても別に鼻で歌っている訳ではなく、要点は「歌うぞと構えて歌い始めたのではなく気が付いたら歌っていた」事、これが"鼻歌らしさ"だ。気分がよかったり、気を紛らわせたかったりする時に人は鼻歌を歌う。それは、その歌がその気分の受け皿になっているからだ。即ち感情の表現としての歌である。ここから出発してなんら差し支えない。

ぼくはくまも、そう考えると鼻歌から生まれている。ヒカルがくまちゃんと戯れていた時に自然と口をついて出てきた歌だったそうな。それを完成させて録音して製品化し宣伝して皆の元に届ける。するとそれがまたその人の新しい鼻歌になる。気分に行き場が出来た時人はその分ほんのちょっと自由になれる。人生に愛着が湧く。音楽の効用なんてその程度のものだ。力んでたって仕方がないし、だからこそどこまでもこだわっていい。今日も誰かがいつの間にかヒカルの歌を歌っている。本人すら気づかないうちに。もうそれだけで十分なのだ。いやもっと欲張ってもいいけどな。