無意識日記々

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役に立たない覚悟はお有りですか

ミュージシャンとしてヒカルが復帰する際にいちばん肝心なのは「役に立たない覚悟」であると、私は思う。

楽家稼業も、それが商業的活動である以上社会に貢献している点は疑いがない。しかも、"宇多田ヒカル"クラスになると、言い方は悪くなるがそれに群がって仕事を得ている、という人が山ほど居る。サザンやミスチル、ジャニーズやAKBなんかもそうなんだけど、そのほんの一握りの(秋元さんちは何百人とかみたいだけど)超ビッグ・アーティストに支えられて音楽業界は成り立っている。彼らが稼いでくれないと、「アルバム3枚位は新人の成長を待ってみるか」なんて悠長な事は言っていられなくなるのだ。そういう意味においては、勿論"宇多田ヒカル"の復帰及び音楽家活動の社会的意義は大きい。


ここで私が「役に立たない覚悟」と言っているのは、しかし、そういった話ではない。もっと直接的な事である。医者なら手術で人の命を救えるとか、消防士なら火災を防いで命を助けるとか…いや、もっとシンプルな事でいいや、タクシーで隣町まで乗っけて貰うだけでもいい、そういった、社会を円滑に回す為の歯車の役割を、音楽は担えない。せいぜい、盲人の為に交差点で流す音楽を提供する位だろう、わかりやすく言えば。それが「娯楽・文化」としての音楽の位置付けなのだ。

特に、ヒカルはポップ・ミュージシャンであるから、"役に立つ"即ち"誰かのしたい事を助ける"という機能は全く持たない。繰り返すが、これは"実感"の話である。ヒカルがボランティア活動等に興味を持ち、恐らくこの3年で取り組んできた事は、私の想像になるが、その日その場で「手伝ってくれてありがとう」と言って貰えるような様々であったのではと考える。それは、歌を作って歌う事では得られない"人の役に立つ実感"であり、まさに人間活動の中核を担うものであったのではないか。

この勝手な妄想に拠って立てば、ヒカルがミュージシャン活動に戻るという事は、そのような地道な実感を再び手放すハメになる、という結論になる。それは、ヒカルの性格上、結構キツい道な気がするのだが、音楽に携わるというのは、本来そういうものなのだ。歌は何も出来ない。人に何かを、自然に何かを強いる事は出来ない。ただ空気に溶けて消えていく存在だ。ピタゴラスの定理のように、未来永劫人類の役に立ち続ける業績とは正反対。歌が未来永劫語り継がれても、未来の人も私たちと同じように鼻歌を歌って楽しむ。何も違う事は起こらない。人を病から救う事もないし宇宙の星々に連れて行ってくれる事もない。

それでも歌う気になれるのなら、戻ってくるべきだと思うのだ。ヒカルは音楽以外の才能もあるから、人の役に立つ業績を別の分野であげられるかもしれない。その可能性を捨ててまで"誰の役にも立たない"この仕事に戻ってこれるなら…もっといい歌が出来るだろうなぁ。そうなったら、私は嬉しい。