無意識日記々

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catchup

インスタグラムからツイートがあったのか。元気ならよい。細かい写真の分析、特に精神分析は野暮だからやめておくか。携帯からだと何が写ってるのかさっぱりわからんし。ケチャップの詰め替え用ストックなの?

ケチャップというカタカナを知らない人はなかなか居ないが、これをアルファベットで書ける人となると相当少ない。マヨネーズも同様だ。いっぺん書いてみなはれ。

正解はそれぞれ、catchup/catsup/ketchup(3通りあるって今知ったよ)、mayonnaiseである。特にマヨネーズは全滅に近いのではないか。学校の試験で書いた覚えもない。かなりの難易度だ。pneumonoultramicroscopicsilicovolcanokoniosisやfloccinaucinifilipilificationは何も見ずにスラッと書ける私もマヨネーズは結構自信がない。いやそんなことどうでもよかった?

なお、ケチャップと同じスペルの動詞"catch-up" は追い付くとか取り戻すという意味だ。私はそういうメッセージとして受け取っておく。

それにしても、不思議な感触の写真だ。ひんやりとした優しさと乾いた仄白さを感じる。打ち捨てられているのに暖かさに包まれているような。拡大して見るとまた感想も違うのかな。

それとは別に、私が思い出したのは小説「春の雪」のワンシーンだ。窓辺に虫が止まっている。ただそれだけの描写に三島は何百だか何千だかの文字数を費やした。私が同作で最も気に入っている場面のひとつである。

何がどういいのかを説明するのは難しい。というより無理だ。ただひたすら、それが文学的瞬間であることだけが伝わってくる。私にはそれでいいし、それこそが文学であろう。文字によって伝えたい何かを相手の心の内に生じさせる作用。本を読んでいて最も感銘を受ける瞬間である。それが私の場合窓際の虫の場面だったというだけで、これは個々に違うんじゃないかな。

Hikaruの今日の一枚も、不可思議な幾何学的調和の中で、孤独な横顔をみせる赤いしるし。あぁ、あと「ECHOES-THE BEST OF PINK FLOYD」のアートワークも思い出した。あの一連の作品群も、窓という、広がりに断絶を、奥行きに繋がりをもたらす絵画的実在のモチーフをメインにしていたが、"枠"のもつ、額縁のような作用はここでも美しいコントラストを描き出している。『懐かしい色に窓が染まる』とは、こういう場面の事を言うのかしらん。

こういう写真を撮られると、「宇多田ヒカルの歌詞に置ける窓とドア(扉)の作用の違い」なんかについて論じたくなってくる。今夜は手に余るからしないけど、一枚写真を公開しただけで様々なフェイズがドミノ倒しのように色を変えていく様は、そうか、"我々に独特"なものだ。常に待っているから、変わるのだ。その事を重圧と感じるか楽しいと感じるかは彼女次第だろう。案外、我々はお互いに、それぞれに追い付かないと、と焦っているのかもしれない。深呼吸してみれば、なんだ、同じ歩幅じゃないですか、となりたいところなんだけどどうなんだろうなぁ。ま、いっか。今日は今日だよ。よかった、よかった。Today is our dayだったですね、はい。