無意識日記々

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作品への注釈の時機について

それはそれ、これはこれなので直接は関係無いんだが、デザインのプロセスを記者会見やらなんやらで説明するのって凄く恥ずかしそう。私がデザイナーだったら凄くイヤだ。スキャンダルは疑惑をかけられた時点で十分。既に敗北なので恥の上塗りはしたくない。

デザインは作品だ。そこに何かの注釈をつけたら、それはもう別の作品になってしまう。これを劇的に演出したのが松本人志の「写真で一言」で、真面目に撮影された作品としての一枚を、たった一言で笑いに変えてしまう。このプロセスを、元作品への侮辱だと捉える人が居たとしたら大変な誤解である。行き過ぎれば顰蹙を買う例もなくはないが、一言を付け加えた時点でそれは松本人志の作品なのだ。たった一言の注釈で、作品は、生まれ変わるどころか全く別の作品になる。それを考えれば、記者会見で創作のプロセスを話すのは新しいアイデアもないのに写真で一言をやるようなもので、誰も得をしない。

この、「どこからどこまでがひとつの作品なのか」というテーマはことのほか重要である。突き詰めれば独立した作品なんてこの世に無い事になるのだが、だからこそどこらへんかである程度の区切りは必要だ。エムブレムが一枚絵でひとつの作品というのなら、それを観て感じた事が総てである。

作品に触れて感じた事があるかないかの区別もまたこの上なく重要である。誰かが何かを作品について感じた上で、ではそれは一体どういう事なのだろうと興味を持ってくれた上での注釈や会見、インタビューというのはとても魅力的である。自分が最初に作品に触れた時に感じたものが何であったかを解き明かす、上質のミステリー小説のようなものだ。

逆に、最初に何も感じなかった人に対して注釈や会見やインタビューを聴かせても、言い訳がましい、押し付けがましい、恥の上塗りと散々な言われようとなる。これは、注釈が全く一緒であっても同様だ。何よりも分水嶺なのは、受け手が作品に触れて何らかの感情を感じたかどうかにあるのである。そこを見失うと軋轢と怒号と退屈が飛び交うだけの空間が出来上がってしまう。


それを考えると、『額縁を選ぶのは他人』という一節の潔さは凄まじい。私はベストを尽くしたから、あとはどうとでもしてくれ、そう言えるまで作り込んだ証である。もうそこから如何に注釈を付け加えようがどうにもならないところまで到達した人間でないと出て来ない一言である。

だからといって、当時のヒカルがインタビューの類いを拒否した訳ではない。寧ろ、今までの歴史の中で、ULTRA BLUEの楽曲にまつわるインタビューが最も充実しているのではないか。

大事なのは、繰り返しになるが、まずは作品を聴いて貰って、そこで何かを感じてもらった上で注釈を受け取る事だ。勿論雑誌等のインタビューは、それを読む事で作品に興味を持ってもらう作用と効果を期待したいのだが、それはそれで、インタビュー記事というひとつの作品の質が問われる場面である。ここでも、「どこからどこまでがひとつの作品か」を弁別して認識する事が肝要である。

時々、「あまりしゃべりすぎるとリスナーのイメージを壊してしまうかもしれないから」とあまりインタビューで(特に歌詞について)曲の話を拒む人も居る。気持ちはよくわかる。作詞者に言われてしまうと、「そういう意味だったの!?」というガッカリに抗えない事もある。自分の中の勘違いの方が魅力的だったという事もあるから。しかし、出来れば、曲を聴いて何かを感じた人に向けては、何か解説をしてくれると嬉しい場面もある。

そこで提案したいのは(松浦さんにツイートするべきだろうか)、今までのようにアルバム発売前後に皆の購買意欲を高める目的で行われるインタビューとは別に、発売から随分時間が経ってから作品を聞き込んだ人向けにも作者にインタビューをするのはどうだろうか、という案である。なかなかこれは商売に結び付きそうにないから現実には難しいかもしれないが、例えば購入者特典として後日限定配信するとかにすれば有意義なのではないか。アルバムを聞き込んだ後で、実はあれはこうだったんですよという話が聴けるのはファンとしてかなりそそるのだ。一考してみてくれないものかなぁ。