無意識日記々

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語り手の視点の揺らぎ

Never Let Goの歌詞は、先述のようにまず日本語の歌を書こう、という意図から生まれているので、そこに強烈なメッセージ性はない。ドラマでいえばモノローグのような、小説でいえば一人称の地の文のようなナレーションのような、そんなスタンスである。

例えばこれが、後年のMaking Loveのような曲になると、誰に対して何を伝えるかがハッキリしていて、歌詞としての目的が明確だ。わたしが誰なのか、あなたが誰なのか、私達が誰で、何を言っているのか、知らない人が聴いたら奇妙な嫉妬の歌に聞こえるかもしれないが、素性を知っている我々にとっては明白である。

翻って、Never Let Goはかなり語り手の視点が揺らいでいる。

冒頭の『真実は最高の嘘で隠して現実は極上の嘘でごまかそう』の一節は、強いていえば独り言で、相手に聞かせるというよりは自分に言い聞かせているのに近い。それは登場人物としての心情で、作詞者としては「うまい言い回しがみつかったぜ、へっへっへ」てなもんで、なんだか歌っててちょっと嬉しそう(それが歌のトーンからわかる訳ではないが)。

次の『そんな二人でもあなたを失いたくない』はある意味象徴的だ。"そんな二人でも"という言い方は、自分たちの事を外から客観的にみた視点なのに、次にはもう"あなたを"という一人称で二人称に呼びかけかねない言い回しに遷移する。この一文が繋ぎになって『ねぇどうしてそんなに不安なの』の一節が現れる。この一文は、あわやもう自分の口から出てあなたに語り掛けかねない勢いだ。もしかしたらもう実際に言ってしまっているかもしれない。それ位"台詞"に近い。そして次には『ゆるぎない愛なんて欲しくないのに』とくる。こちらは台詞にしてはくどく、流れとしては語り書けた理由を心の中で述べる雰囲気だ。

この最初のヴァースだけで、かなり語り手としての視点が揺らいでいるのがおわかり頂けただろうか。独り言からナレーターになり一人称になり相手に語り掛け心の中で呟く。結構目まぐるしいのだが、曲調も相俟って揺らめくように思いがひとつひとつ漂ってくる。以後のヒカルの曲にはなかなかない、ややダウナーなコンディションのクオリアだ。

これを、まだ日本語の歌詞作りに慣れていない為に偶然に生まれた産物とみるか、最初からこの揺らめきを狙って書いたものかを判断するのは結構難しい。恐らく後者だと思うが、だとすると余りにも一発目から巧者過ぎる。まるでベテランの余裕だ。確かに、この時点で既に日本語の文学の読書量は相当のものだから、語り手の人称と視点という基礎基本は身に付いていたとは思うが、ここで見せている匠(たくみ)は"歌詞として"の技術である。歌において、その"スタンス"を決めるのはかなり難しい。物語の中の主人公を演じるのか、語り部になるのか、自分自身としてメッセージを発する(これがMaking Love)か。そこらへんの設定で歌詞の印象は大きく変わる。そこを揺らめかせる事で独特の心象風景を描くこの技術、意図的だとしたら一曲目からやはり格が違いすぎると言わざるを得ない、16年前、14〜5歳の頃だぜ。