BLUEの歌詞を振り返ってみる前に、今一度This Is Love自体の歌詞をみてみよう。
この歌のヴァースで特徴的なのは、一連の歌詞の流れの中でメインヴォーカルとサブヴォーカルが分担しあっているところだ。
『夜と朝の狭間 震える手で
(デジカメ支えて) とらえる人
(うしろからそっと)抱きつく人
なにか言いたいけど
(次の瞬間)もう朝なの』
括弧書きがサブヴォーカル、それ以外がメインヴォーカルである。注目したいのは、サブヴォーカルなしでも、ちゃんと歌詞が成立している点だ。
『夜と朝の狭間
震える手でとらえる人
抱きつく人
なにか言いたいけど
もう朝なの』
これだけで情景は十分に伝わる。確かに、夜と朝の狭間をとらえる、というのは抽象的でわかりにくいかもしれないが、ここで言いたい事はこういう事なのだ。
デジカメという小道具を登場させるのは、その抽象的で伝わりにくい感覚を具体的な対象を使って表現する為だ。だから、メインヴォーカルの歌詞だけで何となく理解出来た人にとってデジカメの登場は俗っぽく野暮ったく余計かもしれない。
この違いというか趣味の差は、This Is Loveの"前編"であるPassionを想起すればよりわかりやすい。opening versionのみでも伝わる人には伝わるが、そこだけでは掴み所がない、と感じる人も多かった筈だ。そこでヒカルは、PassionをJ-popの文脈に相応しいものにする為にSingle Versionを作った。そこではエンディングが付け足され、例の『年賀状は写真つきかな』のような、日常的で具体的なオブジェクトを歌詞の中に織り込んでPopsとして通用する楽曲に仕立て上げた。それと同じ事が、This Is Loveではひとつのパートとして纏められている。
メインヴォーカルのみを抜き出して読むと、確かにPassion本編のような淡い情感が伝わってくるが、何の事かよくわからない。そこに『デジカメ支えて』のような(年賀状のような)小道具や、『後ろからそっと』のような具体的な動きを付け加える事によって明解な場面描写として機能させている。
このパートで出色なのは、つまり、Passionでは別パートとして最後に付け足していた要素を、ひとつのパートの中でメインとサブの対比として簡潔に纏め上げている点だ。これにより人は抽象と具象が日常の中で常に隣り合わせに同居している事を無意識的にでも感じ取る。技術的な発想力もさる事ながら着眼点自体も素晴らしい。
斯様にThis Is Loveは、幻想と日常がくるくると次々と回転して歌詞世界を、サウンドを構築している。Passionで時間をかけて辿り着いた境地とそこに至る道筋を、空間的なパノラマの中にひとつのものとして封じ込めている。この曲から感じ取れるスケール感はそういった所からも由来しているのである。