無意識日記々

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誰の背中誰かの背中

「EVA序破Qサントラのハイレゾ配信が決まりました」

なぬっ!?

「なお宇多田ヒカルの楽曲は含まれません」


ちっ……


ぬ〜か〜よ〜ろ〜こ〜ビーム!(あれ、アリガタビーム辞書登録してなかったっけ俺…)


これは都合よく捉えよう。Single Collection Vol1&2のハイレゾ配信が控えているから今は出し惜しみをしていると。うん。

さてそんな他力本願は置いておいて話をThis Is Loveに戻そうか。なお、ざねっちが今日「戻れるならいつがいい?」と訊かれていたが私は「過去でも未来でもどっちでもいいからHikaruのライブ会場に行きたい」と答える。声さえ出ていれば何歳だろうが些細な事だ。


冒頭で「何故恋ではなくて愛なのか」と問い掛けたが、実際、この曲における愛の字は本来総て恋と書かれるべき文脈で登場する。以下に挙げてみよう。

『予期せぬ愛に自由奪われたいね』
『激しい雨も ふいに芽生える愛も』
『もしかしたらこれは愛かも』

これらの愛を恋に置き換えてみる。


『予期せぬ恋に自由奪われたいね』
『激しい雨も ふいに芽生える恋も』
『もしかしたらこれは恋かも』

ご覧のとおり。かなり定型句的な言い回しが並ぶ。恋は予期せぬものだし恋心はふいに芽生えるし戸惑うのも恋だろう。愛、と言った時に予期せぬとかふいにとかもしかしたらとかはあんまり使わない。この曲での愛は普通なら総て恋の字が当てられるべきものばかりなのだ。


何故こんな置き換えをしたのか? この問いに答えるのはこのアルバムにおいて最も難しい課題である。なので私なりの仮解釈を述べるに留めておく。

まず、英語のLoveには恋と愛の区別がない事が大きい。なにしろこの曲のタイトルが英語でThis Is Loveなので、安直に言えばどっちでもよかった、或いは真面目にいえば、英語でいうLoveは日本語でいう恋も愛も表しているのだからこれはこれでいいのだ、という自信にも取れる。つまり、愛と言ってもいいのだから言ってみようじゃないかという気持ちがある、と。

もうひとつは、この歌に普遍性を付与したいという意識が作詞者にはたらいたのではないかという推測だ。恋は一点集中で愛は総てを抱き締める、みたいな事を書いた気がするが、つまり、ここで描かれている『震える手でとらえる人』や『怯えた目でさまよう人』は、誰か特定の人を形容する為に登場したのではなく、こういった人なら誰でも愛してる、という捉え方をするべきなのかもしれない。成る程、そうだとしたらそれは恋というより愛だろう。『抱きつく人』はその時、全体としての世界の一部を抱擁するのだ。


ここらへんからがややこしい。デジカメというとどうしても当時の配偶者の事が思い浮かぶ。「光」の前科がある為、あからさまな歌詞も時に真実なのが宇多田ヒカルだ。だとしたらこれ以上具体的な対象の指し方はない訳でな…。

ここで、やはりBLUEの『恋愛なんてしたくない』の一節が降りかかってくる。やはりこの曲に触れなくてはならないようだ。8年前への旅は未々続くよん。