無意識日記を読み返してみると将来を妄想する記事より過去を振り返る記事の方が面白い。これは当然で、その将来が来てしまった後では予想が当たっていたり外れていたりという"結果"はもうわかってしまっているので今更読んでも仕方がなかったりするからだ。これはもう仕方ない。リアルタイムの時はそれが正直な気持ちなのだし期待感なしで継続していくのもなんとなぁく不自然なので自然な流れに任せておく。
裏を返せば、確定的な過去―出来上がってもう今後手をつけそうにない完成された作品たち―に関して今語る事はリアルタイムで読んでいてそんなに面白い事でもない。今じゃなくていいからだ。いわんや8年前の話だなんてそりゃあ「何年前の話だい?」って窘められますわな…いやだから8年前なんですけどね…。
BLUEという歌のもつ"感覚"というのは、既に冒頭であからさまに示されている。
『見慣れた町 見慣れた人
全てが最近まるで
遠い国の出来事』
この実感のなさ。似たような感覚に対する記述が更に幾つかある。
『全然なにも聞こえない
砂漠の夜明けがまぶたに映る
全然涙こぼれない』
『もう何も感じないぜ
そんな年頃ね』
『全然何も聞こえない
琥珀色の波に船が浮かぶ
幻想なんて抱かない
かすんで見えない絵』
見ざる言わざる聴かざるじゃあないけれど、外界に対して閉じているというか繋がっていないというか、「何も感じない」感覚というのが全編を通して貫かれていて、その茫漠とした感覚が、砂漠だとか琥珀色の波だとかいった具象に集約されている。
しかし、歌自体の叫びは痛切且つ強烈だ。これだけ瞬発力のあるメロディーはヒカルの歌の中でも珍しい。叩きつけるように、暴発するように強く高い音が続く。それでも、そんなになってでも最後の最後には『ブルーになってみただけ』と矛を収めとしまう姿が、どこまでも痛ましいというか。メロディーもここに来ると穏やかに宥めるように優しいシラベになってしまう。叫ぶは叫ぶのだけどそれで放り投げてしまわず、自己嫌悪で潰れてしまわないギリギリで引き返す。結局、何も解決しない。ここまで来ると何か怖い。狂気一歩手前といいますか。
『(さあね)』の一言に、そのバランス感覚は端的に表現されている。率直にいえばこれは人格の分裂で、熱く叫ぶ自分と冷めて呟く自分が分離しているのだが、恐らくここが後にくまちゃんの"誕生"を促す萌芽なのだろう。この時点ではまだ今の彼の人格―熊格、か、がまだ確立されていないので呟いているのは彼ではないが、こういった感情に折り合いをつける為にもう1つの視点が必要であった事は…明白、であろう。彼が我々の前に現れるのは確か2006年5月、ULTRA BLUE発売の直前である。BLUEは多分"その前"の段階だろう。この痛烈な叫びを優しく包み込むもふもふのくまちゃんは、まだ居ない。