無意識日記々

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近づけば近づくほど

13曲もあるんだから選曲的にはとっととどんどん先に進んでいかないと今年が終わってしまうのだが、昨日の井上陽水ラジオコメントが面白かったのでちょっとだけそちらの話を。

事実関係としては、「共通の知人を介して知り合った」「青山のイタリアンで会食」「コンサートでは氷の世界を歌ってもらった」といったところだろうか。緊張してイタリアンの味がわからなかった御大に対してヒカルはきっと味わっただろうと。つまりヒカルは井上陽水を前にしても全然緊張していなかったと。

いつも何だかはぐらかすようなコメントをする印象のある井上陽水だが(いやそれでもちゃんと「ラジオのコメント録りなんて面倒だなぁ」的な皮肉も交えてたけどね)、今回は本当に正直に話してくれたと思う。ヒカルの事を崇め奉ってると何度も強調していたが、あれは誇張でも何でもなく事実なのだろう。彼の言う通り、井上陽水にとって宇多田ヒカルは天上人なのだ。

井上陽水といえば70年代随一のヒットメイカーで、日本初のミリオンセラーアーティストらしい(詳しくは知らない)のだが、それを含めても抜きにしても、個性とオリジナリティを兼ね備えた非常に卓越したシンガー・ソングライターである事は間違いなく、業界的にはヒカルのずっと大先輩で、遜るなら当然ヒカルの方であるべきなのだ。

それでも彼は、ヒカルを自分よりずっと上の人だという。きっとそれは、彼にとって宇多田ヒカルとの彼我の差が"強烈な実感"となって心に突き刺さっているからだろう。我々から見ればミリオンセラーアーティストなんて皆超一流のアーティストで、その優劣なんぞ想像というか、「きっとこんな具合なんだろうなぁ」と何となく思っているだけなのだが、"同業者"で、且つ自身も非常に高いレベルで勝負してきたアーティストだからこそ、目の前にその差が実感を伴って、"事実として"厳然と存在する処を見せ付けられては、もう遥か彼方上の方を見上げて降参しつつ崇拝するしかないだろう。

つまり、彼がヒカルを崇め奉るのは、ただ実力差があるというのではなく、彼が相当に才能のあるミュージシャンであるからこその自然な態度なのだ。言わば、宇多田ヒカルは、同業者であるシンガーソングライターたちにとって、その才能に磨きをかけて近づこうとすればするほど遠くの存在に感じられてしまう、それ程までに突出した才能、天才なのである。

これは、一見とても不思議な事だ。我々ファンにとってヒカルの魅力というのは、億万長者でオールストレートAで親子揃って日本史上歴代1位の記録をもつ歌手だなんて本来なら遥か遠くの存在である筈なのに、気さくで、飾らなくて、何より歌の歌詞が僕たちの心に非常に共感されるというか、まるで自分の気持ちを代弁してくれるかのようなものになっている、というところであった筈だ。つまり、庶民にとって宇多田ヒカルは、遠くの存在である筈なのにいつも身近に感じられる、心に寄り添っていてくれるような人であり続けてきた。

天才たちにとっては、近づこうとすればするほど遠くに感じられ、凡人たちにとっては、遠くを仰ぎ見ている筈なのに近くに感じられる、いや『太陽だって手でつかめるぐらい近くに感じられる』じゃないですが、そんなヒカル。まるで幾何学を無視しているかのようだが、相対論的にみれば、光からみた世界はこんな感じだ。いやそんな話はいいわね、だから、わかりやすくいえば、才能があればあるほど人はヒカルを崇め奉るようになる。その一例が井上陽水だったという訳だ。


しかし、そんなコメントを例に出すまでもなく、宇多うたアルバムのSAKURAドロップスには全編に渡ってヒカルへのリスペクトと楽曲への深い理解が溢れている。これだけ陽気で明るい曲調なのに楽曲本来のシリアス性を全く失っていないのは、彼がこの曲とヒカルを茶化したりからかったりとふざけるような事を一切していないからだ。この歌を唄う為に一生懸命練習した、というのも人によっては冗談めかして受け取るかもしれないが、事実であろう。だから彼はPVで笑っていたんだろう、この曲を漸く歌いこなせるようになったのは大変嬉しい事だったに違いない。何より、曲とヒカルに対して失礼のないように振る舞える所まで持っていけたのが最高に満足のいく事だったろう。それこそ、崇めていなければこんな苦労と笑顔はできるもんじゃないのよね。