無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

幸せが生まれる時間

ヒカルに"要求"する事となると、しかし、コンスタントに活動して欲しいとか納期を守って欲しいとかの遥か以前に"元気で居て欲しい"とか"幸せに過ごしていて欲しい"とかがある。

これは、見方によっては少々残酷だ。仕事上の要求なら、顧客(我々だな)のニーズに沿って供給を調整するのはプロフェッショナルとしては当然の事なので「最善を尽くします」とも言える(これも和風な婉曲表現だが)が、元気とか健康とか幸福とかはプライベートの話であって、ある意味「大きなお世話」なのだ。こちらに悪気がある筈もないので責める訳にもいかず余計にタチが悪い。ヒカルだって痛し痒しだろう。

それも、元気とか健康とかなら医者に行ってお墨付きを貰う事も出来ようが、幸福となると自分で見極める以外無いので、他者から言われてもどうしようもない。いやある程度は、周りから「幸せそうで何より」と言われる時点で結構幸せだとも言えるのだが、それは完全に満足という風にはいかない。

じゃあ、一緒に感じ、考えるしかない。ヒカルが幸せを感じられるのは何なのか、どうすればよいのか。

まず、そもそも今。ヒカルが「幸せになりたい」「幸せでありたい」と思っているのか?という疑問がある。「幸せになろう」という歌もある。「もちろん、そう。」とヒカルが答えるなら問題ない、次へ行こう。

「さぁ、、、。」と所在無げに答えるなら問題である。実際のところはどうなのか。"Making Love"でヒカルはこう歌っている。『誰よりも幸せであってほしい』と。親友に対してヒカルが素直にそう思うなら、ヒカルに対して親友さんがそう思ったとしても何ら不思議ではない。いや、そらそう思ってるだろ。そしてヒカルは彼女の"期待"に応えたいと思うだろう。なので、ヒカルは幸せになるべきだ。


…と勇ましく思っても。1人で部屋に帰った時に果たして同じように思えるかというと違うんだなこれが。部屋に帰った時に家族が居るならば、幸せになりたがる事に躊躇いは感じないが、もし誰も居なければ自分が本当はどう思っているか途端にわからなくなる。ゆみちんとの会話で判明したように、結婚した今でもヒカルちんは1人になりたがる時間がある。その時に幸せを見失う。自分を幸せにしなくてはという重圧からも解放される。1人の時間とはそういうものである。

我々は、それを遠くから眺める事しか出来ない。いや、覗き見する事も許されていない。ただ単に、そうであるだろうというだけの話だ。ほっと一息吐く時間。それは満足や幸福や充実とは程遠いし、極めれば極めるほど自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなっていくが、だからこそ世界を離れて自分の存在を感じられる時間でもある。それが何になるかはわからないし、事実多分無意味な時間なのだろうけど、ただただ必要なのだ。今のところ「そうある」のだから、そうである所から始めよう。そして何万という人の数にまみれ、騒ぎ、また1人の部屋に戻ってゆく。幸せは、そんな狭間に感じる幻の一種であるかのように感じられる。だから我々は彼女に「幸せであってほしい」と願う自由を得るのである。ヒカルが1人になれる部屋と時間がある限り。だから、遠慮はしなくていいよ、きっと。