無意識日記々

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約束を甘受する勇気と泣きたい気持ち

あらためて、新しい『少年時代』もいいテイクだなと沁々感じる。名曲は演奏が始まった瞬間に辺りの空気を一変させるが、伴奏があるとはいえほぼ歌一本でそれができてしまうのはやはりヒカル特有というか。日本語の歌がここまでの響きを持つ事の稀有を改めて噛み締めざるを得ない。

そういう意味では、勝負は既についている。辺りの空気を変えるだけでなく、その辺りの時間まで変えてしまったのだから。感動は約束されたのだ。ある意味、我々がこれからフルコーラスを聴いて感動をする未来は既に過去のもののようになってしまった。幸せなことである。

それを無理矢理物足りないと言う事も出来る。しかしそれは、幸せになることを恐れているのと区別がつくのだろうか。幸福を素直に享受するのにも不安を拭う作業が必要になるのが、平凡な人間の責務であり宿痾だろう。それを自分で気付く事は難しい。いい加減、宇多田ヒカルが実在する事を呑み込まなくてはならない。我々がただ理想を押し付けて夢を見ている訳では無いのだ。ここに居るのはアイドル(偶像)ではなく、故にありのままをみなくてはならない。そして、それは我々の妄想が総て実現するより遥かに豊かな幸福を齎し得る、既に齎してきた何かなのだ。それはどう足掻いても1人の人間でしかなく、1人の人間なのである。絶賛に慣れなくてはならない。

井上陽水の感想が聞きたいね。ヒカルの歌を、どう思ったのか。あんな偉大な人が「私が論評するなんて烏滸がましい」とか言い出しそうではあるのだけど。ヒカルは『宇多田ヒカルのうた』を聴いて泣いたそうだが、陽水もまたヒカルの『少年時代』を聴いて泣いていそうだ。この曲を譲りたくなる位に。実際に言い出すことはないかもしれないが、ヒカルに歌われてこの歌も嬉しそうだよね。