無意識日記々

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力点の遷移

いつかも書いたな、「何かが欲しい」「誰かと居たい」「あんな風になりたい」「かくありたい」と言った時、人は大抵「何か」「誰か」「あんな」「かく」の方に興味をもつ。「将来は清原和博みたいなホームランバッターになるんだ!」と目を輝かせる野球少年。それを聞いた我々は「へぇ、ホームランバッターになるのか。」という返事をするのだ。

しかし、真に尊いのは「なりたい」という心そのものなのだ。なりたいものが何であれ、そういう欲望や希望を持って前進する事それ自体に価値がある。

「誰かと居たい」というのもそうだ。へぇ、じゃあるみちゃんはゆかちんと一緒に居たいのね、みたいな風に誰と誰がみたいな話にすぐなるのだが、本当に尊いのは「居たい」と思える事そのもの、そして居たいと思える場所や誰かが有ったり在ったりする事である。

「居たい」という欲求を抽出出来るのは、幸せに生きている人には当たり前過ぎる事でピンと来ないかもしれない。しかし、世の中には「厭世的」な人が少なからず存在する。いや、多くの人がそんな気持ちを感じた事がある、のではないか。普通こう言う。「死にたい」と。

しかし大抵は死ぬのはイヤだ。痛いし怖いし苦しいし。生きてる理由が死にたくないからという人も、気持ちも在るだろう。詳しくみればその感情は結局「(こんな所に)居たくない」に集約される。「居たいと思える場所が見つからない」「一緒に居たいと思える人が居ない」と。「居たい」と思える人は、それだけで幸せなのだ。

「何か」「誰か」から「欲しい」「ありたい」「なりたい」「居たい」へと力点が遷移する瞬間の気づきについて、ヒカルも昔語った事がある。どうやら、歌詞を書き上げたその後に気づいたようだ。

―― テイク5の最後の『今日という日を素直に生きたい』っていう歌詞を聞いて(読んで)思ったんだ、『なんだ、私生きたいんじゃん。』って。

最初ヒカルが歌詞を書いた時にはきっと『今日という日を素直に』というセンテンスに力点を置いていた筈だ。誰しもがそうだ、『何をどういう風に生きたい』というのなら『何をどういう風に』のところを詳しく訊きたい。しかし、たぶんヒカルは、ヒカルの言う通り、テイク5の作詞作曲中は精神が荒廃していて、何度も死にたいと思ったか、或いはなぜ自分が生きているのかわからなかったり、生きてる実感がなかったりしたのではないか。そんな風に作っていた歌なのに、よりにもよって最後が『生きたい』で締められるだなんて。力点の遷移でヒカルに本当に見えたものは『生きたい』という心そのものだったのだ。『今日という日を』も『素直に』も勿論大事だ。それこそがテイク5の色であり個性である。しかし、この歌のいちばんの価値は、ヒカルに、ヒカル自身が『生きたい』と本当に願っていると気づかせた事だった。力点が遷移する前の軽い重心のところに生まれた言葉であるからこそ、それは透明に真実なのだ。

ヒカルの『生きたい』という心は本当に尊い。何であれば、私を含めたここの読者がいちばん欲しいと思えるものはこれではないか。ヒカルに生きる意志があるのなら、生きてさえいればいつかまたどこかで会える。何という大きな、存在する希望であろうか。そして、私たちに、対象が何であれ『いちばん欲しい』という透明な感情を作り出してくれる宇多田光の存在を、そのまま痛感する。この痛みこそが生である。