無意識日記々

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楽しい

迷惑甚だしい。「宇多田がバンドで復帰」とかいう釣り記事だ。何が腹立たしいってもし仮に本当にヒカルがバンドをやりたくなった時にやりにくいんだこれ。「ほら、当たった」とか「私の記事に影響された」とか言いやがるんだ釣った本人は。何たるどや顔。それだけは阻止せねばなるまいが、よく考えたらヒカルがバンドだなんてテンション上がる事この上ないからもしそうなったらこんな釣り記事の記憶なんて消し飛んでしまうだろうからまぁ実はどうでもいいっちゃどうでもいい。


さて前回は「幸せ」について書いたので今回は「楽しい」について。

20年前に野茂英雄が大リーグに登場した時、「楽しんで投げました」だの「楽しもうと思います」と言うのを聞いて、時代が変わったなぁと痛感したと同時に、「楽しい」という言葉が随分広義に捉えられるようになったかなとも思った。彼の仏頂面で「楽しんだ」と言われても、普通の意味ではちょっとピンと来ない。笑顔で「わあい!」とはしゃいだりするのが「楽しむ」だという先入観がこちらにはあったものだから(それも極端だが)、彼の「楽しむ」は随分と異質に見えたのだ。


結論から言ってしまうと、私なりの広義の「楽しい」の定義は「居たくて居てる」事だと思う。

野茂の「楽しい」は決して快楽的な感情ではない。寧ろ、大リーグのマウンドというプレッシャーだらけ、恐怖や不安の渦巻くような状況では、苦痛と苦悩しか感じないのが普通だと思う。俗に言う"吐きそうな"感覚である。それでも彼が充実感を伴って負け惜しみでも何でもなく「楽しんだ」と言い切れたのは、彼が大リーグで投げたくて仕方がなかったからだ。彼は大リーグのマウンドに「居たくて居た」のである。だから、重圧も苦痛も苦悩も総て彼にとっては"楽しい事"だったのだ。その総てが、「手に入れたいもの」だったから。


何故こんな話をしているかというと、急に昔の「うたばん」での中居クンの台詞を思い出したからだ。「宇多田ぁ、お前ホントいつも楽しそうだな。」―なんか、こんな感じだったと思う。


これ、確かにそうだよなぁと同時感じていた。言い方を変えれば、彼女はいつでもどこでもどんな時でもどんな事でも"面白がれる"人だった気がする。

「昔はよかった」とは余り言いたくない私だが、この点に関しては、今(と言っても32歳のヒカルがどんな人になっているか私は知らない訳だが)よりも昔の方が"優れて"いたように思えるのだ。こう纏めると少し違うのだが、昔の方が今より人生を"楽しんで"いたようにみえる。

人として、音楽家としては明らかに成長している。作曲能力はここ5年がキャリアのピークだし(是非次の5年はこれを更新して欲しいところだが)、大人の女性としての頼もしさ、宇多田座の座長、リーダーとしての風格みたいなもんもWILD LIFEの時に感じた。

大人になったらハシャいではいられない。もっともだ。落ち着いてくる。さもありなん。だからこそ「楽しい」は、大きく拡張されねばならない。長く生きてきて辿り着いた境地、「これが私の生きる道、居たくて居る場所だ」という"意志の痕"が欲しい。そこに居るからこそ苦痛も苦悩も望ましい。そう思える場所で放つ笑顔はさりげなく、そして堪らなくカッコいい。それこそがこどもの憧れる大人だと思うのだ。

ヒカルは、大局的にみるとまるで「この世に居る事自体に違和感がある」という類いの言動をする事がある。テイク5などは「銀河鉄道の夜」をモチーフにしているが、現世に対する違和感や疎外感を隠さない。そうなると、早い話が「生きてる事が楽しくない」ようにも思えてきてしまう。勿論極論だが、「生きたくて生きている訳ではない」と口走った事がある人なら、大なり小なり、一度は通過した事のある感情である筈だ。

あなたは、今居る場所に、居たくて居ていますか? こんなところ早く逃げ出したい、卒業したい、と思っていませんか。ずっとここに居られたらいいのに、と思える場所や場合、状況などはありますか。そして、そこに居られていますか。居られているなら、間違いなく人生は楽しく、生きている事は楽しい。吐きそうな重圧を感じてもなおそこから離れたくないのなら、私にはそれこそが「幸せ」であるように感じます。いや、苦痛も快感も本質ではありません。ただ透明に「そこに居たい」と思えるかどうか。私の「楽しい」の定義はそれに尽きるのであります。


Hikaruに、今そう感じられる時間がどれだけあるか。あればあるほど、私は嬉しい。きっと、私達も嬉しいでしょう。願わくば、歌を歌って聴かせてくれている時にHikaruがそう感じていますように。(祈)