無意識日記々

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時々こういう日記書くよね

宇多うたレビューの二巡目に入る前に、色々考える。「もしこれがヒカルが復帰するモチベーションのひとつになったらな、という気持ちも正直ありました。」とはこれを企画した沖田さんの弁(不正確なのでコピペしないように)だが、私も何度も繰り返してきているように、このアルバムは「I miss you, Hikaru.」という皆の感情の集結とその喚起である。居なくて寂しいという感情の共有。それがファンの間だけでなく送り手側、レコード会社やミュージシャンの間にもあることを、いや、ファン以上に、同じ側、音楽に携わるプロたちこそが最もヒカルを待ち遠しく待ち望んでいることをこれでもかとわからせてくれるアルバムであった。

勿論温度差はある。最もヒカルを切望する林檎嬢と、ヒカルが居ても居なくてもきっと変わらなかったろう岡村靖幸では随分違う。しかし、その温度差と優劣が全く相関していないところがこの作品の、音楽の面白いところだ。

当然ながら曲はいい。あとは着眼点と発想、そして実行力実践力実現力だ。そういう意味においては、全編を聴き通せば聴き通す程宇多田ヒカルという人が浮かび上がってくる、誠に抽象的な鑑賞を強いるアルバムであるともいえる。

加藤ミリヤはその点、わかりやすい。フェティシズムとはこれなのだろう。あの歌い回し、あの声のトーン。For Youを聴き込んできた人であればあるほど「あるある」「そうそう」と頷く事請け合いだ。

一方、原曲から遥か遠いSAKURAドロップスを聴いた場合、最初に浮かび上がってくるのは井上陽水その人であって、それ故このトラックに嫌悪感を持つ人が居ても不思議ではないのだが、しかし、彼の尊敬と真摯を通して我々は宇多田ヒカルをそこに"見る"。

陽水は極端例だが、同じように"見える"ヒカルの姿を重ね合わせていけば、いけばいくほど、ヒカルの姿は明確に浮かび上がってくる。関係性の中から構成される宇多田ヒカルは、しかし、音楽という魔法によってそこに心すら在るかのように感じられる。心が音で出来ている人ならば、有り得ない事ではない。

くまちゃんも同様の存在である。彼は、我々が、そこに居ると思えているからそこに居るのだ。特に、ヒカルはくまちゃんの存在を信じて疑わない。というか彼女にとっては何よりも確かな"事実"と言うべきか。構造は同じである。

してみると、これはI miss youという恋慕なのだから、宇多田ヒカルは恋慕そのものである、という解釈も成り立つ。飛躍だが、しかし、他にしっくり言える言葉が見つからない。恋慕する感情そのものが宇多田ヒカルの抽象が辿り着く場所だ。

それにひかるは耐えられるだろうか。"知らない人"に向かって、そんな事を考える。知性は酷だ。我々に、彼女の事は本当には理解出来ないんだという言い訳を与える。私は彼女の事を、それこそ、キコの家族の誰よりもよくよく知っていると言っても差し支えないかもしれないのに、でも、私は、ひかるの事を"知らない人"だと平気で言う。宇多うたアルバムを聴いて恋慕の情を共有出来るのも、彼女の事を本当には知らないからだ。

人や人を介すると、一人と一人ではなくなる。私は知らない。一人と一人になれるなら、もう知らないとは言わせない。

なんとなれば、"正体"とは、呆気ないものなのかもしれない。しかしそこに辿り着くまでのプロセスが凄まじいのだ。そして、近づけば近づくほど、自分が近づいたと思えば思うほど、どんどん手が届かなくなる程に彼女は遠くなる。それならばずっとここに居よう。待つ事は時間の食事である。時間を食ってしまえ。それは栄養になる筈だ。そんな事を考えるならば、生きている事は自然の話だし、だから「おかえり」って言えるようになると思う。音と音が響き合えばそこは家になる。出迎える準備をしつつまた音を奏でて響かせようか。まだまだ夜は長いのだから。