無意識日記々

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9人てSLIPKNOT位しか居ないかw

生演奏重視といえばひとつエピソードを思い出した。80年代、ZABADAK上野洋子吉良知彦アイルランドのダブリンを訪れ、音楽が生活の中に溶け込んでいるのをみて衝撃を受けたのだそうな。パブを覗いても誰かが楽器を奏で皆が歌っているんだと。以後ZABADAKは打ち込み系の音を減らし生演奏に力を入れ始めライブ・バンド/ユニットへと変貌を遂げていったという。

ヒカルが「もしかしたらルーツといえるかもしれない」と語っていたのはアイルランドではなくお隣のスコットランドだが、ロンドンを拠点にしているらしいとはいえスコットランドには実際に行ってみたのだろうか。否、行ってみていないと考える方がおかしいか。その中で、スコットランドでの音楽の在り方みたいなものに直に触れる機会があれば、やはり生演奏重視に拍車が掛かる展開も考えられる。人の演奏は人を動かす。それだけのことなんだけど。

ただ、やはりヒカルは単独のソングライターであって、自身1人の手によって築き上げられる世界を大切にしたい筈だ。コンピューターの発達は、バンドをクマなくても一通りの演奏を、体裁の整った楽曲を提供する事を可能にした。それで10年以上やってきたのだからある程度自負はある筈である。

なお、演奏も、人数が増えれば増えるほど、逆説的だが、たった1人の作曲者の意向が反映されていく結果となる。人が増えると収拾がつかなくなるからだが、シンプルにいえば指揮者が必要になってくる人数以降は作曲家1人の世界観に頼る事になる。指揮者は作曲者の代理であるのだ。

そういう眺めを前提にすれば、まぁ2〜9人くらいまでの編成は"バンド"と呼べるのかもしれない。正確な定義は知らないが、これより多いとビッグ・バンドと言って指揮者が登場しそうな気がする。

いや具体的な人数とかはいいんだ。今、つまり、考えている生演奏とは、十数人数十人居て指揮者が必要なオーケストラの類いではなく、そういった少人数編成の、一人々々が作編曲に携わる、そういった創造過程を含むものである。その時、各パートは各パートに責任を持ち、その人が別の人と入れ替われば楽曲の一部も入れ替わるような、そんな個々人の存在感を重視した上での生演奏、そして、バンドでの作編曲。これがヒカルに可能であるか否かを考えてみたい訳だ。次回の話はそこをもうちょい掘り下げてみる。