無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

この世界の言葉とその世界の言葉

私がインストにご執心なのは、それが「この世界の言葉」だからだ。言語は本質的にローカルなもので、常に内と外を作る。「音楽は国境を、言葉の壁を超える」というけれど、それは器楽が、メロディーがあるからだ。Hikaruはモーツァルトのレクイエムを聴いて「何言ってるかわかんないんだけど彼の言ってる事は感じ取れた」と言った訳だが、もしそれが単なる詞の朗読だったら果たして伝わっていたかどうか。メロディーがあって、器楽演奏があってそれで国境や言葉の壁を乗り越えている事は明らかだ。

「この世界の言葉」というのは、言葉とは1人々々の世界であり、1人々々少しずつ違うものだが、この世界が、江戸川コナンくんがいつも言っている通り「ひとつ」であるのなら、ここに何かひとつが収束する筈だ。言葉も沢山紡げば同じ事だけれど、それだけでは「ひとつ」に辿り着けない。どこかの時点で実際に"奏でる楽器"が必要だ。人の声も含めてね。

しかし、個々の思い入れもまた、その世界における真実であり、我々は寧ろ、そこしか知り得ない。だからこそ器楽演奏だけでは不足で人は言葉を、その人自身の言葉を欲する。朗読だラップだと前回取り上げたのはその為である。

この世界とその世界の鬼子である「歌」は、即ち、この世界とその世界を繋ぎとめる鎹である。それはその人の言葉であると同時に、この世界の言葉でもある。局所と普遍が重なる場所。ならば同じ歌を違う人が歌うという事には価値がある。いや、価値とはそれなのだ。

Hikaruのコーラス・ワークは、自分1人が歌っているという意味で、合唱ではない。自分の声を素材にした別の何かだ。シンガー・ソングライターであるのなら、1人で私小説を歌うのがハマるのだからそれはそれでいい。Hikaruの唯一無二の声は合唱にそぐわない。

昨年のアナ雪フィーバーを思い出す。あれは、ひとつのメロディーを、数十ヶ国の言葉で歌うという大プロジェクトで、それが当たった。つまり、ああいう事なのだ。人は同じ所と違う所がある。そして、同じだと思っていた所が実は違っていたり、違うと思っていた事が同じだったり、要するに結構よくわかっていない。

今のところHikaruの歌で合唱に似合う歌といえば"ぼくはくま"くらいか。虹色バスもいいかな。案外海路も似合うかもしれない。メロディーや歌詞の性質が、向いている。しかし…という話から、また次回。