無意識日記々

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バラッバラの音鳴りさん

前にHikaruが一度「今歌のない音楽を聴いている」的な事を呟いていた。その心境を詮索する気はない。「歌詞があると」というifを掘り下げてみたくなっただけだ。

歌詞があって歌手が居てそれを歌う。人が言葉を紡ぐ以上、それは文脈で語られ得る。

毎度言ってるように(ほんになぁ)、Hikaruは音楽性に統一感が無い。ジャンル分けを拒否するPopsである。よくある、「こっちはサーフ・ロック風、こっちはボサノバ風、こっちはフレンチ・ポップ風…」みたいな、既存の音楽性をいいとこどりした作品ではなく、一曲々々が独特のサウンドになっている。だから「〜風」という言い方をしにくい。しかも、そのUtada Hikaruワールドの中でも"似た曲"が非常に少ない。その為、曲と曲同士の関連は薄く、それぞれがバラバラに存在している。

これがもし、インストゥルメンタルだと何の問題もない。メロディーは何を参照するまでもなく聴いたままで美しく、リズムに乗る人はまず間違いなくそのリズムが刻まれている"真っ只中"でリズムに乗っている。曲が終わった後にノっている人は居ない。居たら単にその人の頭の中でまだ曲が鳴っているだけだろう。器楽演奏は、その時その場のものである。まさに今、鳴っている音に反応するのみだ。

言葉というのは、そういった"音楽の作法"を逸脱するものだ。歌詞だからといってそれは例外ではなく、そこで使われている言葉に対する事前知識が必要である。

逆に考えてみよう。例えば、歌詞の中に知らない単語があったとしよう。例えば若い人は、『枕元のPHS』が何の事かわからないかもしれない。それを歌うのを聴いて、「どういう意味なんだろう?」と小首を傾げたのが曲を聴いている時のリアルタイムの反応だったとして、「そうか、電話なのか!」とはたと膝を打つのは曲を聴いていない時間帯に意味を検索した時である。その人にとって歌詞の意味が伝わったのは歌が鳴っていない時なのだ。

インスト曲ではそんな事は起こらない。「あの楽器はカリンバっていうのか」みたいな知識を後で知る事はあっても、音楽の魅力自体には何ら影響を及ぼさない。一方、歌詞の意味を知る前と後では、歌詞に対する感想が変化する可能性がある。これが器楽曲と歌曲の本質的な違いである。つまり、歌詞は、曲が流れている時と流れていない時の区別が無いのだ。もっと言えば、我々は時間軸の中で、曲の歌詞で使われている単語ひとつひとつの意味を実際に知った自分の人生の時間の中の瞬間をその都度参照しているのである。極端な話、今、目の前の音楽だけを聴いている訳ではなく、人生の中の様々な時間を一度にめまぐるしく再体験しているのである。

この、歌(メロディーに歌詞を伴った何か)の特徴を考える時、ひとつの曲の歌詞は、どうしたって他の曲の歌詞の参照対象となる可能性を持たざるを得ない。

物凄く平たく言えば、作詞家宇多田ヒカルの書く歌の歌詞は、それぞれに繋げて受け取られるって事。あっちの歌の"あなた"とこっちの歌の"あなた"は同じ人だろうか違う人だろうか? こっちの"Mama"と"かあさん"と"お母さん"は同じ人なのか違う人なのか。同じ言葉を使ったり、似た言い回しをしたりすれば、どうしたって繋げて考えてしまう。

器楽演奏でも似たフレーズや同じ楽器を関連付けて考える事も出来るが、その"近さ"は常に連続的でとてもわかりやすい。1音半高い音は1音高い音より半音高い、或いは2音高い音より半音低い。そういう感じ。

しかし言葉は違う。同じ「あなた」という単語が各文脈であらゆる姿に形を変えてやってくる。言葉遣いによっては、宇宙の総ての事物のいずれにもあてはまるかもしれない。これも平たく言えば「バラッバラ」だ。

だから…という話をしたかったのだがここから思ってたより長くなりそうなのでまた次回。