無意識日記々

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やたらにもちもちした話

話を詰めていくと結局、私はヒカルのモチベーションに興味があるのであって、他はどうなろうが大した違いはない、と思っているようだ。初心の確認ですわね。

「やる気」と言ってもあのレベルになると常識的な価値判断だけでは捉え切れない側面も出てくるから難しい。例えば、史上最高のエレクトリック・ギタリストであるジミ・ヘンドリクス。彼のプレーを聴く度に思うのは、「ギター弾いてて楽しかったのかなぁ」という点だ。あそこまで鬼気迫るプレイだと、もう“ギターに弾かされている”ようにしか見えないのだ。ギターに呪われているというか、彼の肉体が音楽を奏でる為の道具のように見えてくる。あそこに彼の意志や願望や希望を汲み取る余地はあったのだろうかと思う。勿論本人に訊いてみないとわからないし、訊いてもわからないかもしれないし、そもそももう訊く事も出来ないのだが。

ヒカルはプロデューサーという役職を担っているだけあって、事態をコントロールする術には長けているだろう。それだけに、撤退という判断を下す自由も持ち合わせている。ある意味今がそうだとも言えるし。その自由に対して「続けて欲しい」と訴える為には、プロデューサーとしてプロジェクトに何らかの"勝算"が見えていて貰わないと難しい。

そういう意味では、それぞれのペルソナのモチベーションという考え方が必要かもしれない。作詞者としてのモチベーション、作曲者としての、編曲者としての、歌手、ライブ・パフォーマー、プロデューサー、映像監督、編集長、ピアニスト、ギタリストとしてのモチベーション…それぞれに違うだろう。ここに将来は作家としてのモチベーションも加わる予定。それぞれが上がったり下がったり色を変えたりしながら、ヒカルの未来の行動を変えていく。何がどうなるかはわからない。

ペルソナが多いというのも良し悪しだろう。歌手宇多田ヒカルが「もうダメだ〜歌えない〜」と折れそうになった時にプロデューサー宇多田ヒカルが「まだまだいける!もう1回。」と叱咤する様は容易に想像できる。一方で、やる事が多ければ多いほど「躰が1つしかない」不自由さを痛感する事になる。

ジミ・ヘンドリクスにもしプロデューサーとしてのペルソナがあったのなら、ギタリストとしての自分のプレイを抑制させてでも"延命"を図ったりしたのだろうか。今更知る由も無いが、人格分裂の由来が精神の保全にあるのなら、それはある種の"希望"たりえるかもしれない。人は弱いのだ。