無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

見たり観たりし始めるから起こる

前回はちょっと小休止。たまにはそういう回があってもいいかなと思って。…って、正確に言えば、ヒカルからアルバム制作の言葉を貰って以来、気が抜けてるんだな私。もう見える所まで新譜が来ているのか、となると俄然テンションが上がりそうだが、寧ろ逆で、アルバムがリリースになれば黙っててもテンションはヒートアップするので敢えて自分を盛り上げる必要はなくなったと。

でも、冬山での遭難者は山小屋の数十メートル手前で力尽きるというし。山小屋を見た途端安心してしまってその場で眠り込んでしまうんだと。実際の山小屋に到着するまではぼちぼち歩き続けよう。

しかし、確かに、このままでは難しい。5年ぶりの、とか7年ぶりの、とかいう冠がつくとどうしたって「期待に胸を膨らませて」とか「はちきれんばかりの」とかが続いてしまう。この状態で、作品の穏当な評価が出来るだろうかという危惧があるのだ。

売る方はどうしたって盛り上げようと色々と仕掛けてくる。それはいいとして、こっちがそれに過剰に反応するとバブルが起こる。或いは反感を買う。こういうのは、落ち着ける所にさっさと落ち着いてしまった方がいい。

一方、「定評」という言葉も嫌いだ。評価は個々人が別々に下してこそ価値があるというのに、それが多数派だからと決まった評価を他者に押し付けようという空気がある。何がそんなに不安なんだと思うけれども、要は自分の耳で聴くのが面倒臭いんだろうな。評価なんて人による日による天気による。その都度々々に味わうものだ。

この2つは矛盾するか。落ち着くべきところに落ち着くのを望む心と、個々の評価を尊重する気持ちと。いやまぁ両立するか。単に、こちらの期待や妄想を作品に押し付けるなという事だ。期待に応えてくれれば嬉しいが、それはひとつのアドバンテージである。期待外れであったとしても、その落胆とは別に、目の前の作品が実際の所どういった価値を持っているのかは判断されねばならない。そういう事だ。

しかしそもそも期待をしなければ耳を傾けようともしない訳で、このプロセス全体が通過必須事項なのである。それをまた味わえるというのは、何だこれ、幸せか。

偏見や先入観は、見たり観たりし始めるから起こるものだ。まずはそこから始めて、次第に実態に近付いていけばよい。焦る事はない。引き続き私は、アルバム発売まで気の抜けた状態で過ごす事に致しますかの。