無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

また少し一休み。

私はお腹が空いててすぐに食べられない時―それは我が座右の銘「腹が減ったら食うんだ」に著しく悖る行為なので非常に憤懣遣る方無いのだが―にはデスメタルを聴いて気を落ち着けるようにしている(食い物は無くても音楽はすぐに聴ける態勢でいつもいるんだな自分)。そうするとすっと怒りが収まる。憤懣遣る方が出来るからだ。

私の空腹に対する怒りは相当強い。宗教的と言ってもいい。空腹と飢餓は全人類の敵である。駆逐放逐するのに何の躊躇いも感じない。その怒りを受け止められるのだからデスメタルという音楽は相当に強い。勿論"ごまかし"でしかないのだが、感情の制御には非常に役に立つ。音楽の効用の一つだ。

若干種類にもよるのだが、デスメタルのようなヘヴィ・ミュージック、エクストリーム・ミュージックの愛好者には"気のいいヤツ"が多い。日常生活で怒りや悲しみがあったとしても、それを発散したり解消したりする術を知っているからだ。なので、デスメタルのLIVE会場に笑顔が広がるだなんていうのはいつもの事だ。IN FLAMESなんてもうみんな楽しそうだよ。

代償行為、と言っていいのかはわからないが、音楽にはそうやって一時(いっとき)の感情を制御する効用があり、それを使えば様々な人間関係や個々人の問題が、解決されるまでにはいかないまでも前向きに対処するよう促す所までいけるのは特筆すべき点だ。

従って、逆からみれば、正負あらゆる感情は音楽に貢献し得る。誰かを殺したいという感情に従ってその誰かを殺したら失われるものは計り知れないが、その感情をもって「誰かを殺したい」という曲を書いてしまえば、もうその感情から解き放たれる可能性が出てくる。自分で作らなくても、誰かが似た感情を基に作った音楽ならかなりの部分が共感でき、それによって解消される感情も在るだろう。

ならば、あらゆる音楽の創造を妨げてはならない。感情の可能性は、総て取り付くして楽譜に封じ込めてしまおう。

危惧もある。「殺せ」という感情を込めた歌を聴いて、それを実行に移す人間がありはしないかと。実際にそういった裁判の例もある。息子が自殺したのはあなたがたの音楽を聴いた為だという訴えだ。私の知る例ではその訴えは退けられたが、遺族からしてみれば因果関係を探りたくなるような歌詞やサウンドやアートワークが目の前にあればそうなるのも仕方が無い。

話は整理しておかなくてはならない。実際に作る事と作品に触れる事は別である。作品に触れた事で負の行為が引き起こされたなら問題だが、だからといってその作品が作られるべきではなかったという事にはならない。剣によって行われた殺人の責任を剣職人に負わせ、剣の制作を中止させるような事があってはならない。元々はそんな事の為に託された剣ではなかったのだから。その気になれば、万年筆でだって人を殺せるかもしれないのだし、そうなれば我々は何も作れなくなる。

そう反論するのが通常だが、仮に音楽に宗教的なまでの影響力を認めたらどうなるか。剣のようなただの道具なら使用者の責任、使用者が原因だと結論付けるのも吝かではないかもしれないが、人が音楽によって齎される感情に"支配されて"しまっていたとしたら、どう判断すればいいのだろう。音楽による宗教的洗脳、或いは暗示である。

これは、例えば「休みの日はお昼寝して過ごそう」という歌詞の歌と「奴を殺せ」と連呼する歌ではどちらがより悪影響が強そうかという問いを発した場合答えは明らかなのだから、"旗色が悪い"のは間違いない。つまり、言葉による扇動が認められたら如何に音楽とはいえその制作に疑義を唱えられても仕方が無いかもしれない。

何だかテーマが広く重くなってるな。話が次回に続くかどうかは…明日の天気次第という事で。