無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

to say yes to your lives

自分の娘に演歌を歌わせたくなかった藤圭子の気持ちはいかなるものだったか、時々考える。演歌歌手として若くして頂点を極めながらその軌跡を否定したくなったのか、はたまた娘に自分のような苦労をさせたくなかったのか。本音のところはわからないが、ヒカルの歌が上手い事については心底喜んでいたようだ。歌手という職業を否定したかった訳でも、ないらしい。

ならば、日本の演歌業界の体質が肌に合わなかったとかかな。でもそれでは、ヒカルがカラオケで演歌を歌う事にすら嫌悪感を抱くのが不自然か。歌だけでなく、人生に及ぼす強い影響を懸念、忌避していたというから、それこそ藤圭子自身が演歌を怨歌だと思っていたのかもしれない。


世代は変わって。ヒカルが我が子たち(二人目以降はまぁ未来の中だけど)に、ミュージシャンになって欲しいのか、なって欲しくないのか。我が子だからといってあまり他人の人生に口出しをしそうにないから「勝手にすれば」とか言いながら「ママみたいな歌手になりたい」とかいわれたひにゃ陰で思い出し笑いしてしまったりしてんじゃないかな、なんて風にも考える。「満更でもない」というのが感想なのではないか。

尚早だ、というのが、しかし、先に立つ。まだ一人目が0歳児だからという話ではなく、他人の人生を云々する前にヒカル自身の人生が開けているからである。何しろ、ヒカルの両親はヒカルがデビューするとなったら事務所のずっと役員だ。つまり、娘の人生に賭けたのである。勿論それだけではなかったかもしれないが、我々の目にはそう映っている。

しかし、今ママになったヒカルの人生は、私たちの目から見ると、まだまだこれからである。第1幕が終わって第2幕が開くのを待っているに過ぎない。ヒカルはまだまだヒカルの人生の主役なのだ。

子育て。無論大事である。特に最初の2,3年はそいつが中心になって世界がまわる。ほっときゃ死ぬのだから恐怖だ。まぁ目を離す気も起きなかろう。世の母親たちは恐怖に駆り立てられて子育てをしてる訳でもなく。しかし一方で、ヒカルにはヒカルの人生がある。我々からみて、そうでなくては困るのだ。

ここからが違う。時を隔てて生まれた双子の姉妹の親娘の差が出てくるのはここからである。いわば、新劇版EVAが序までは旧世紀版を踏襲しながらも、破の途中からまるで違う物語に突入したかのように。

未知の領域に足を踏み込む。自己予言的性質は失われるかもしれない。どうなるかわからない。人生の面白さはここから始まる。運命の無い世界。いちばんワクワクする時間帯。それこそが本物の創造性だ。目の前に「新しい人間」をまさに生んだばかりの母親が、自らの人生をもまた新しく生み出していく。楽しまなければソンである。

一方でダヌパは予定調和的なまでに幸せに育てばよい。親子なんてそんな風になるのだ。その流れの中でなら、ミュージシャンになりたいと言ってきた時に、素直に喜べるだろう。何より、ミュージシャンになる人生を肯定する為には、ヒカル自身が、ミュージシャンとして後悔の無い人生を歩まねばならない。それは、これから成し遂げればよい。


ただ、ファンの方は老いている。自らのペースを崩して欲しくはないが、もしどっちでもいいよというのなら、出来るだけ早くお願いしますね。