無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

嗚呼、なんて仕方のない私。

むびのん発売17周年とか凄いな。でも特に今振り返りたい気持ちもないのでスルーで。初めて聴いた時の衝撃は凄まじかった(確か、リアルで「なんじゃこれ」と呟いた気がする)が、それ以降も凄まじくクォリティーの高い曲ばかり書いてくるもんだからその衝撃は薄れたような。勿論凄く良い曲だがヒカルの力の片鱗でしかなかったというか。

世間的には違うのだろうな。

最初のインパクトを引き摺るのは生き方として正しい。しかし私は敢えて切り捨てる。歌を聴く時くらいフェアでありたい。人種や宗教や国籍や地位や職業や性別や何やかんやで差別と偏見ばかりの世の中で、歌に対してくらいはフラット&ニュートラルで接したい。それが難しい事なんて百も承知だが、私の中に残った数少ない願望のうちのひとつなのだ。

したがって、最大の強敵は私の「ヒカルへの期待」である。期待をしていると、期待に応えてくれただけで舞い上がるし、期待に応えて貰えなかった時に必要以上に貶す。どちらも正確ではないし、公平ではない。しかし、何も期待していないものに対しては、そもそも耳を傾けない。世の中に暴力が存在するのは、世で誰かが叫んでいる時に必ずしも誰かが耳を傾けてくれている訳ではないからだ。肩に手をかけないと「聴いてくれよ」の一言だって届きはしない。

なので、期待は必要だ。耳を傾ける為に。しかし、一度耳を峙てたらもう心に期待を残してはいけない。いやいけなきゃないけど、フェアでありたいと私が言うのなら、私はそうしなくてはいけない。

毎度そうやっている。今書いた事も過去に二度さんどとこの日記に書いた事だ。いちいち言わなくてはならないのは、それがやっぱりいつでも難しいからである。

注文したのと違うメニューが出てきても食べてみて美味しいと思えたらそのままご馳走になって「よかった。今日はいい日だった。」と呟き記す。それだけ。

でも、今回は力技が使えるかもわからない。仮に「とと姉ちゃん」が面白ければ、私は毎日見る筈だ。そしてヒカルの新曲を156回以上聴く事になる。最終回の頃になったら、もう歌に慣れ切っている。何も特別さを感じない。何もかも知っている。その時改めて「いい歌だなぁ」と心の底から実感できるのならば、それはかなりフェアなジャッジに近いんじゃないかという気がしている。ちょっとこれも、願望かもだけど。

だったら嬉しい。何故それが嬉しいのか考え始めたらこれが結構難しいのだけれど、その事について考えたとしても考えなかったとしても、嬉しい事にかわりはない。非常に、シンプルである。

更に願うならば、宇多田ヒカルという看板によって喰わず嫌いや無関心を決め込んでいる人たちにも、伝われば嬉しい。朝ドラは好機である。これより好機となると初の大河ドラマ主題歌か、東京オリンピックの(TVの)テーマソングくらいしかないんじゃないか。次のSMAPのシングル曲を手掛けてもいいけれど。

その嬉しさにかまけてみたい。いいじゃないか、それが「待った甲斐があった」という事だ。言ってみせる。やっぱり期待している。嗚呼、なんて仕方のない私。