無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

日記とツイート

どうにもずっと書いてると頭が堅くなるというか固くなるというか、発想が特定の方向にしか行かなくなって、よくない。型を意識しなくても型に嵌った内容しか出て来なくなる。自分の切り口だけが切り口ではない。もっと他の考え方にも触れてみたい。

だが一方で、ここにはある一定の「期待に応えられる」という側面もある。ヒカルの新曲が発表になれば、いつものあの調子で私は感想を書く。自分で書いておいて言うのもおかしなものだが、「そうそう、そういうことだよね」と相づちを打ちたくて、打たせてくれる時間。それを自分自身に提供している。

無意識日記という位だからこれは日記だ。自分の事はそんなに書かない。自分の感じた事、考えた事を書く。事実より、発想や着想、妄想が主である。音楽が齎されれば、その時の心の動きの記録となり、それは少し普通の日記である。日記文学というのは日本文学の中でも最古のジャンルのひとつだ。ここは「日記だ」と言い張って古典に阿ろう。

そういう意味では、何かが新しく在るべきだという思想は特に重要視しない。ただ、それは世間一般に対してであり、今まで自分の書いてきた事と比較した時に新しい必要は、在る。でなくばコピペで済ませればよい。

コピペにも意味はある。初オンエアまでのカウントダウンツイートは総てコピペだ。それでも、日々のワクワク感は作れる。積み重なって近付いていくからだ。或いは減って、落とし込めていく感覚でもいいが。


…ん? 速報が入った。ヒカルの新しいツイートか。

『@utadahikaru: せっかくスタッフが始めてくれてファンが利用してくれてるハッシュタグ…自分で書くのが非常に恥ずかしいというかこそばゆくて、参加できてない。みんなでやる縄跳びに飛び込むタイミング逃した気分だ… #おかえりHIKKI

…いやお主が言うべきは「ただいま」じゃろがい。自分で「#おかえりHIKKI」て呟いてどないするんじゃ。参加せんでよろし。寧ろ「#ただいまみんな」タグを独りで独占せぇや。

こういう、「入るタイミングを逸した」時に大縄跳びの喩えは私もよく使うのだが、時々キョトンとされる。いちばんわかりやすいと思うんだけどねぇ。時機さえはずさなければ流れに乗って容易に行える事でも何かの拍子でタイミングを逸して一旦考え込んでしまうと途端にキッカケを見失って難易度が上がる。カンタンにやれてたはずの事が出来なくなってしまう…というよくあるシチュエーションに対する代表的な比喩で、文章を書く時には非常に便利だ。

ヒカルは『みんなでやる縄跳び』って言ってるな。私はいつも「大縄跳び」だが呼び名に地域差や時代差があるのかもしれない。或いはヒカルが呼び名を忘れていた、もしくはわかりやすいように説明口調にした、いずれも有り得る。

んでこの比喩に乗っかって突っ込むなら「あんたは大縄回す方や! 中入ってきよとしたらあかんで。しっかり腰入れて回し続けなはれ!」いうとこやろか。今何してはるか知らんけど、発破かけときまひょ。

2050ツイートめ。フォロワー205万人。1ツイートあたり1000人増えてきた計算か。効率いいな。もう「ただいま」を言うタイミングを逃しちゃったから、アー写かビデオレターの時にあらためて言って貰いますかね。にしても、なんだろ、調子よさそうだな…追い込み時期ならもっと荒んでるのが常なのに。アルバム発売はまだ随分先かもしれないね。