無意識日記々

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止まない止まない癒えない癒えな

雨の夜だ。真夏の通り雨について語らざるを得まい。

SAKURAドロップス』の『降り出した夏の雨が涙の横を通った』の一節をもう一度思い出してみよう。勿論、こちらが悲しくて涙を流している事と雨が降ってきたのとは何も関係は無いのだが、実際、涙が頬を伝う瞬間と雨の降り始めが重なった体験をした者にとっては、どうしたって「天も泣いている」と捉えてしまうのだ。偶然と体験。これは本質的な誤謬である。他者にとって意味は無いが、体験した主体にとっては"本当に人生の中で起こってしまった出来事"なのだから、そこから自己を分かつのは困難だ。

昔ヒカルが風邪を引いて寝込んでいた時、テレビで、同じような境遇の人が殺されるニュースをみて、それがまるで自分の事のように感じた、というエピソードがあった。これも14年前だな。そう感じたからには、そうなのだ。この感覚を知らないと、『SAKURAドロップス』から更に奥に広く踏み込んだ『真夏の通り雨』の解釈は覚束ない。

雨と涙が同調している、と納得できたとして話を進める。

何度でも強調するが、この歌の要は『降り止まぬ真夏の通り雨』の一節だ。本来、雨は止むものだ。しかし、その、「いつか必ずやがては止む」という性質を強調する為には、やはり『通り雨』という表現が必要だった。通り雨ときけば、ああすぐ止むものなんだとすぐさまイメージを植え付け易い。そして、この歌は『止む筈のものが止まない』のを強調する事、この一点に尽きるのだ。

最も印象的な場面は―幾つもあるけれど―、歌の最後だ。いや、最後と言っていいかわからない。何故なら、この曲には、本来なら終わりなんて無いのだ。もしアナログレコード時代だったら、盤の終わりまで延々最後の二節が繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し奏で続けられた事だろう。実際、過去にはそういうレコードがあった。誰だっけ、レコード盤の余った時間全部笑い声で埋めたのは…。或いは最後の溝をわっかにしてしまって本当に再生が終わらないように仕組んでしまったかもしれない。『真夏の通り雨』のエンディングのフェイドアウトは、即ち、本当にフェイドアウトする以外仕方がないのだ。LIVEでどうアレンジするか今から楽しみだ。シングル曲なだけに、歌わないという選択肢は難しい気がするし。

終わらない歌。『EXODUS'04』の『music never ending』を思い出すが、それを歌詞にそのまま当て嵌めている。

『ずっと止まない止まない雨に
 ずっと癒えない癒えない渇き』

この静かな慟哭はどうだろう。雨が降り続いて止まらない、濡れるだけ濡れられる筈なのに、渇きが全く癒えないだなんて。濡れれたら渇きは無くなる筈なのに。この対比の落差が切実な絶望の表現に昇華しているのがこの二節の異様な所だ。

『癒えない』というのがポイントで、つまりこの『渇き』は『傷』なのである。乾きを潤す、というよりは、そこにある筈の瑞々しい何かが欠けている、削り取られているという意味での「渇き」である。本来、傷は、すぐに潤わされて修復に取り掛かる。血と体液が溢れ出し傷を覆い瘡蓋を作りまた削られた皮膚を再生していく。この歌では、この過程が失われているのだ。幾ら雨が降っても削り取られた心を埋める事が出来ない。そう歌っている。

そして、その歌い方が…うん、その話から、また次回ですかね。