無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

ギウ゛アップ宣言からのスタートアップ宣言

読みたくない人は読まないで下さい。




…ほんとに、いいの?




諦めた。やっぱ無理だ。手強過ぎて手に負えない。『真夏の通り雨』。私はもう、若くない。

本当ならちゃんと解読した上で書きたかった日記をもう書いちゃう。自力で読み解きたい人はここでブラウザのバック・ボタンを押そう。


真夏の通り雨』は、娘が愛する母を喪う物語であると共に不倫の歌でもある。というか、私にとっては最初不倫の歌だった。だって真っ先にNEWS ZEROで聴けたフレーズが『誰かに手を伸ばし あなたに思い馳せる時』だったんだもの。ここまで聴いた時点で「おぉ、こっちは不倫の歌か。抱かれてる時に他の男の事を思い浮かべるだなんて背徳的だな。」と解釈した。つまり、実際の不倫というより精神的不倫だな。過ちは起こしていないけれど心ここにあらず、みたいな。スタートの解釈はそこだった。

で、NEWS ZEROの時点で『自由になる自由がある 立ち尽くす見送り人の影』まで行ったから、「あぁ、この歌は桜流しの続きで、大切な人を喪う歌なんだな。自由になる自由とは自ら死ぬ事だろうからそのままお母さんの事かな」となったのだ。そういう順番であった。

果たして、フルコーラスで聴くと、隅から隅までヒカルのお母さんに対する思いが溢れていてもうその時点の表現力だけで異次元なのだが、それとともに幾らかの描写が艶やかともとれるところもあった。『汗ばんだ私をそっと抱き寄せて たくさんの初めてを深く刻んだ』だなんて、やはり『幸せになろう』を書いた人ならではの筆運びだなと。『深く』は『Deep River』の『Deep』かなと思ったり。

もしヒカルが、この歌全体をダブル・ミーニングに仕立て上げたならそれだけで既に驚異的である。母への想いを100%綴り、その上恋の歌にも聞こえるとは。キャンクリをはじめとした「2つの横顔を持つ歌」の中でもぶっちぎりの最高傑作である。それだけで既に。

例えば、有名所だと、古くで申し訳ないが、RCサクセションの「雨上がりの夜空に」などは、車に乗る事とセックスのダブルミーニングで歌詞を作った古典であり、ヒカルもその日本の伝統(?)に倣って『traveling』を書いている。あんなエロい歌が年間2位の超特大ヒットとか日本人どうかしてる。

その2曲は結構コミカルにダブルミーニングを描いているが、『真夏の通り雨』はどちらの横顔を眺めてもシリアスなドラマだ。もう既に格が違う。

この時点でこの曲は常軌を逸しているが、本当の神髄はそこからの話だ。

思うにヒカルは、喪失と不倫の物語を重ね合わせる事で人の「愛」の誕生と変遷を描こうとしたのではないか。それは、庵野秀明エヴァンゲリオンで20年以上かけても描き切れなかった、人の根源的なテーマだ。

エヴァンゲリオン最大の発明は「綾波レイ」である碇ゲンドウの妻にしてシンジの母ユイのクローンである彼女はシンジの同級生として現れ、アスカと共にシンジの恋の相手として描かれる。

人の愛の形の原初形態は親子愛だ。そこから人は愛を知り、思春期(14歳)の頃には異性や同性に恋をし愛を自ら育む事を知る。その過程を解明するのは心理学の主要なテーマだが、エヴァンゲリオン綾波レイを発明する事でそのプロセスをグロテスクなまでに表現しきろうとした。何十時間のアニメーションを何万時間の手間暇をかけて作る事で。

それを、エヴァンゲリオンのテーマを、ヒカルはたった5分あまりの歌に封じ込めようとしたのではないか。



だとしたら、だとしたら余りにも野心的だ。もうレベルが違うなんてもんじゃない。文学的な価値と言うのさえ憚られる。寧ろ人類にとってそれは文学の次のステップへの足がかりとなるだろう。桁が違う。次元が異なる。住んでいる宇宙が別だ。



そこが「そうなっている」事を、歌詞を分析する事で明らかにしたかったんだが、無理だ。手強過ぎて手に負えない。ギブアップします。そぃで、今もう結論書いちゃったけど、そこに至れはしないんだけど、兎に角ここからは私に見えた範囲だけでもつぶさに書いていく事にしますね。敗戦処理だって人の大事な営みなんですよ、ええ。