無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

音楽と人生が描く陰陽図

対談を読んでいても思ったけど、つくづくヒカルの性格というのは、音楽創造に最適化されていることよな。

あたしが度々引用する『喜び5gも悲しみ5gも同じ5g』という感性はそのまま「長調短調はオタマジャクシひとつぶんズラしただけで基本的には同じもの」ってのと対応している。人間の感情を音楽で捉えていると言ってもいい。自分も少しずつこの感性が身についてきたよ。

少し突っ込んだ言い方をすれば、悲しかろうが楽しかろうが、Good Musicが生まれればそれは「いい経験」だったということだ。それだけである。相対化というと少し違うのだが、人生がそう見えてくるというのはとても興味深い。

逆から描写しよう。愛した人を喪うような強烈な悲しみはもう二度と味わいたくないと思う人が殆どだろう。一方で、「そのことを題材にして生まれた悲しげな名曲」を何度も聴きたいと思う人もたくさん居る訳だ。『真夏の通り雨』『花束を君に』『道』といった母を喪う体験に基づいた楽曲を、皆さん何十回何百回と聴いて“楽しんだ”筈である。悲しい曲を聴くことは悲しい出来事ではなく、娯楽ですらある。

ヒカルのような極端な音楽家は、人生が音楽に聞こえているのかもしれない。人生で何か悲しい出来事が起こった時も、それは悲しい歌を耳にした時と変わらないのだ。勿論、楽しい出来事が起こった時は、楽しい歌を聴くのと同じである。

だが、だからといって「悲しい出来事が起こる事」或いは違う言い方をすれば「理不尽や悪辣」に対しての怒りの感情や、それを是正するアクションを取ろうとする態度が無くなる訳では無い。熊の問題等々、ヒカルが人間活動期間中に取り組んだイシューは我々が知らないだけで多々あるのだろう。それはそれとして、一方で、感情の対処の仕方、感情や人生の受け止め方が音楽への触れ方と変わらないのだ。これも裏から言えば、ヒカルにとって音楽的体験の数々は、我々が人生の中で直に体験する喜怒哀楽と同等以上に強烈な体験なのであろう。だからあそこまで強烈な音楽を創造できる。卓抜している。

ファンでない人がこれを読んだら誤解するかもしれない。ヒカルは誰よりも優しい。それを損なう話では全然無いよと断言しておきたい。それとこれとは話が別なのよと説得的に語れるところまで私は行きたい。