無意識日記々

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「きづき」の構造

流石に今週のとと姉ちゃんの展開には不服な人が多いようで、感想も荒れている。なかには「出てる役者さんが他の番組やCMに出てるのを観るだけで」とか巻き込まれな感想も見かけた。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという事か。

こうなってくると主題歌までとばっちりを受けやしないかと心配になってくるが、みたところ殆ど不評はない。たまに出てくるのも「主題歌は素晴らしいのに本編はどうしてこうなった」タイプのものが殆どだ。嗚呼、なんだか12年ぶり位のデジャヴを感じるよ…CASSHERN…(笑)。

それならそれでまぁいいか。視聴率が下がってくればいよいよ表立って叩かれるだろうが、案外今週で今までの不評を"打ち切り"にして来週からまるで別のドラマみたいな顔して始めるのかもしれない。及川光博も出てくるんだって? どうなるか、見てみようじゃないか。どこからでも笑いを取れる布陣になっていきそうだ。


さて一方その歌の主は昨日久しぶりに意味ありげな呟きをした。

@utadahikaru Jun 14, 7:21pm
最近、「気付くのが遅すぎる」なんてことはないと思えるようになった。気付けただけですごいし多分そのタイミングでしか気付けないことだったんだ。「なぜもっと早く気付けなかった」と後悔しないで、気付けたことに感謝しよっと。


またまた考え込んでしまう。気付き云々というよりこれは後悔の忌避だ。「くよくよ悩んでいても仕方がない」と。後悔と反省は紙一重で、全く後悔しない人間は全く反省しないのでいつまでもいつまでも同じ失敗を繰り返すし、ずっと後悔ばかりしている人間は過去に囚われたままで前に進めない。結局これから何をするか、それで何をしたかを常に省みる姿勢と機会を確保できるか、だ。「我が人生に一片の悔い無し」というのは、それを言った瞬間が人生で最も充実した一瞬だったというだけで、「あの時こうしておけばもっとよかったのに」という悔いを妨げるものではない。まぁそれはいい。

「気付き」の方は、確かに、自分でどうにか出来る問題ではない。対象の存在自体把握していない状態を「気付かない」と言うのだから何も始まりようがない。だから、気付いた瞬間からしか物語は始まらない。しかし、「気付き」自体を鍛える事は出来る。今までの「気付き」全体から、新しい「気付き」を出迎えられる準備を整える事は不可能ではない。それをするかしないかで、以後の「気付き」は全く違う様子になる。実際、「もう何もかもがイヤになった」と言って布団を被ってしまえば、ただ一切が過ぎてゆく「気付き」の生まれない人生の誕生である。そもそも、生きていないと気付けない。生きるという選択肢を選び続けられれば、自ずと「気付き」はついてくる。まずは生きておく事が大切だ。



という話全体に気付けるかどうかが最も大切だ。大切なものに気付けた時の感嘆詞としての「気付くのが遅すぎた」「なぜもっと早く気付けなかった」は、言えれば言える程幸せである。どんどん言って、いきましょう。