無意識日記々

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国歌

終戦の日だし五輪開催中だし、という事で国歌の話。

結論から言えば、どんな理由であれ国家を強制的に歌わせる事象には反対である。政治的な立場としては、表現の自由を守る為だ。つまり、国歌に限らず、どのような歌であれそれを歌うか歌わないかは個人の自由に委ねられるべきだ。国家の統制や国家への忠誠心といった問題は、表現の自由に較べれば重要度では後回しになる。

そもそも、歌は何もしない。空気に溶けてなくなるだけの存在だ。人の心を動かす事はできるかもしれないが、それがそうであると知れる為には個々人の表現の自由が保証されていなくてはならない。話の順序としてはそうなる。

日本の国歌は君が代だが、歌いたい人はおおいに歌えばよい。一方で、様々な理由で歌いたくない人も居る。惨たらしい記憶と結びついている人だって居るだろう。しかし、そんな事情など関係ない。考える必要も斟酌する義理もない。理由なんて要らないのである。ただ「歌いたくない」「聴きたくない」と表明するだけでいい。法はそれを尊重しなければならない。それが出来ないなら法の存在意義はない。そこから理由や思想信条を質すまでもなく。

どんな理由でもいい。「歌詞がダサい」「曲調が暗い」「メロディーがかったるい」でも何でも、歌わない理由としては十分だ。私個人は田舎っぽい歌詞まダークなトーンも荘重なメロディーも大好物なのでそれらの見解からは距離を置くが、それを理由に歌いたくない聴きたくないというのであれば喜んで尊重しよう。

歌は、愛されて歌われてこそ本懐だ。もし仮に、歌う事や聴く事を強制する事象がそこにあるのであれば、たとえ歌われていたとしても愛されている証拠にならない。喜べない。表現の自由が保証されて初めて、歌われる事が愛されている事だと確認できるのである。

式典等に出席している以上、その儀式を履行すべきだというのも一理ある。しかし、この場合は歌である。大勢の中で1人や2人歌わなかったところで式典に支障が出る事は一切無い。一切、だ。聴きたくない人は耳栓をするなりその場の状況に応じて対処方法を考えなくてはならないが。

もし10人中1人や2人ではなく7人8人が歌わなかったら式典が成り立たない、というのであればそれは選曲が悪い。国歌だろうが何だろうが、出席者の大半に愛されていない歌を歌わせようというプログラム自体に無理がある。伝統的な式典だから、と言うのならそれを主張する人の独唱でよいではないか。歌いたい人が歌う。それで成り立たないなんて事ある? 1人も歌いたがらないというのならますます問題が存在しない。国歌斉唱は最初からプログラムに組み込まないだけである。

もし10人中10人に歌って欲しくばそれなりのアプローチをとろう。歌詞の解説やメロディーの構造など、歌の魅力を伝えよう。歌の好き嫌いは人間の尊厳にとって根源的な問題である。それを自由に言えない社会や国なら作り直さなくてはならない。そうやって愛されて初めて、国歌は国歌としての立場を確立できる。伝統だから、という理由で歌い継ぐ人の権利も勿論尊重すべきだ。歌いたい人はどんどん歌おう。聴きたくない人にはなるべく聴かさないようにな。

歌は好きにしろ。そういう意味でも"歌は好い"のよカヲル君。