無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

性と死が歌を分かつ時(只の分類)

アルバム『Fantome』のテーマは「性と死」だと書いたが、今一度各楽曲の歌詞を振り返っておこう。性と言ってもセックスの方よりジェンダー論或いは性差や性の分類についてに比重が大きいかもしれないが取り敢えずそんな感じで。加えて「母」も勿論あるが、ひとまず「性と死」だろう。


『道』はダイレクトにお母さんに向けて歌った歌だ。居なくなってしまった人に対して力強く生きていく宣言をする歌。愛する人の死を受け入れる内容である。これは「死」の側だ。

『俺の彼女』は男と女の本音と建て前を歌った歌である。勿論「性」の側。ヒカルなりのジェンダー論、ステロタイプに対するアイロニーのようなものだろうか。

花束を君に』は死化粧を思わせる歌詞を孕む「死」の側の歌だ。喪った人に対する感謝の美しい楽曲である。

『二時間だけのバカンス』は「性」の側だろう―と言いたくなるのはミュージック・ビデオの影響が大きい。「百合かっ!百合なのかっ!?」と百合男子を色めき立たせる。ただ歌詞は様々な性別の組み合わせを想像させるので必ずしも百合とは言い切れない。しかしジェンダーが鍵を握るのは間違いなさそうだ。

『人魚』は性と死、どちらでもないだろう。幻想的な風景と日常の景色を交錯させるスケッチのような楽曲だ。何より、「ヒカルがこの曲から曲作りを再開させた」記念すべき楽曲である点が何よりも重要だ。

『ともだち』はヒカルの宣言通り、同性愛を歌った歌だ。「性」の側の歌である。

真夏の通り雨』。今まで触れたダブル・ミーニングの中でも最もゾッとした作品。「死」そのものでありながら、作詞者本人が「中年の女性が若い男子と」と言ってしまえるあたり、本当に恐ろしい曲だ。アルバム中唯一、「性」と「死」の両面を持つ歌である。

『荒野の狼』。ヘッセの"原作"を読んだ身としてはこの歌の歌詞をどう解釈したものか、ちょっと躊躇う。ただ、少なくともわかりやすく「性」や「死」を扱ったものだとはいえないだろう。どちらの側でもない。

『忘却』は男女のデュエットであるという点で聴き手に強く「性差」を意識させる歌だが、歌詞自体はそこまで直接的ではない。しかしやはり、その方法論をもってして「性」の側の歌と言った方がよさそうだ。『いつか死ぬ時手ぶらがベスト』という歌詞で曲が終わるが、『いつか』の話だからこそこの歌は「死」の歌とは言い難い。

『人生最高の日』はとても触れ難い。取り敢えず歌詞そのままのウキウキソングだと思っておこう。これは「性」以前の「恋に恋する」物語だし、死の影は微塵も…ない。

桜流し』。圧倒的な鎮魂と哀悼の歌。「死」と、何より「生」の歌である。ここでは「死」の側に分けておこう。


以上。つまり。

「死」の側の歌は『道』『花束を君に』『桜流し』の3曲。
「性」の側の歌は『俺の彼女』『二時間だけのバカンス』『ともだち』『忘却』の4曲。
どちらでもないのが『人魚』『荒野の狼』『人生最高の日』の3曲。
両側に跨るのが『真夏の通り雨』の1曲。

という分類になる。これを踏まえて以降は議論が展開される(と思う)ので、読者諸氏は頭に入れておいてくださいな。