無意識日記々

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渚の凪さ

明日はラジオゲスト出演第2回だが、明後日からはエルミタージュ美術館展が始まる。全く、結局この一年全然話題が途切れなかったなぁ。途切れようが途切れまいが無意識日記は(休み休みしながらも)途切れませんが。

さて、ヒカルは美術館展に『人魚』をテーマ・ソングとして提供している。展示会・展覧会にテーマ・ソングって一体何なのだろう?という疑問もさほど回収されないうちに開催が目の前まで来てしまった。TVCM等で歌がBGMとして流れる以外に、何か用途はあるのだろうか。私は初日から行かずに何がどうなっているのかをインターネットで情報収集してから行こうかな。あそこらへんの街はどうも色んな意味で行きづらいので。まぁ、朝起きた時の気分で決めよう。特にどういった思い入れもない。

で。歌自体。『人魚』は、たぶん、数あるヒカルの歌の中でも取り分け地味な部類に入る。あれだけ種々の、異種格闘技戦かと見紛う程に個性の強い楽曲たちが犇めき合う『Fantome』において、まさに(こういう時に使うんだな〜このフレーズ→)"一服の清涼剤"と呼ぶに相応しい涼やかな空気を、こちらに運んできてくれる楽曲である。

ぶっちゃけ単独曲としては弱い。だからこそ、アルバムという単位で聴いた時に光る曲なので"テーマ・ソング"という風に力まれると「そちらの御期待に沿え応えかねるのですが」と言いたくなる。いや、美術館展だから「主役である美術品たちを引き立てるような奥ゆかしい歌が欲しい」というのであったなら、どんぴしゃである。出版権管理者が日テレでも許したくなるってなもんである。何様。

何より、この歌は、あの事があってから音楽を作った事がなかったヒカルが最初に完成させる事で創作に対する自信と情熱を復活させる事のできた、その歌なのだ。この歌が仮に万が一完成させられなかったとすると、ヒカルは未だに復帰出来ていなかったかもしれない。そう考えると恐怖で震えたくなる。まさに歴史の転換点となった楽曲なのだ。

曲調は、楽曲の大半をハープのみで引っ張る、歌モノとしては『ぼくはくま』すら上回るシンプルさがまず印象に残るものだ。歌も、エモーショナルの権化として名高い宇多田ヒカルの歌唱の中でも最も抑揚がなく淡々としたもの。まさに"フル・フラット"とでも言いたくなる位に「凪」の楽曲である。

その凪さ加減に強い意味を与えようとは思っていない。絵本のページをめくるようなそんな調子で人魚の物語…とまではいかないか、人魚の居る情景を切り取った一枚の絵画のような、そんな歌。ただそれだけで十分だろう。

この歌でいちばん注目したいのはヒカルも言っていた『水面(みなも)』の話だろう。それは…という話題は触れ始めるとほんのちょっぴり長くなるので続きはまたのお楽しみという事で。