無意識日記々

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アラジー(アレルギー)のお話

前につい「スギ"花粉"」と書いちゃったのでちと伝わらなかったかもしれないが、ヒカルは「スギ・アレルギー」だから、という事が言いたかったのだ。スギを木材として使った家屋に行くとアレルギー反応が出る。今もその症状が出るのだろうか、という話でしたのじゃ。

つい最近のニュースで、乳児に蜂蜜を摂取させて死亡させた話があった。吃驚したのは、それが初の死亡例だったという点だ。言葉は悪いがもっとコロコロ死んでるもんだと思っていた。「乳児に蜂蜜を与えるな」というフレーズは物凄く浸透しているとみていいのではないか…と思いかけたところに「クックパッドには百数十件蜂蜜を使った離乳食レシピがある」ときいてありゃりゃとなった。つまり、案外乳児に蜂蜜食べさせても死ぬまでには至らないって事だな。

冷たい言い方かもしれないが、昔は乳幼児なんてコロコロ死んでいたのだ。データをみる限り。母体だってあっさり危険に晒されていた。医療が発達して死ににくくなったに過ぎない。これ前も話したな。妊娠出産育児が安全になったのは先人たちの貢献のお陰であって決して当たり前なんかではない。

「食の安全」もそうだ。本来、食というのは異物を体内に入れる行為なのだから基本的に毒の摂取である。その中の幾つかが消化吸収した時に糧(かて)として機能する。どれが糧でどれか毒かは、食べてみるまでわからない。食べるという行為は、常にそれで死ぬか生き延びるかの賭けであって、「食の安全」というのは毒にあたってコロコロ死んでくれた先人たちの貢献なくしては有り得ないのだ。昨今の「食の安全に対するヒステリー」はその基本を忘れているようにみえる。別に構わんけど。

今は人をコロコロ殺す代わりに動物実験をして確認するのが当たり前になっている。人が死なねばよいだろうという訳だ。お陰様で「食の安全」も日進月歩を果たしている。

食品のアレルギー表示もまた豊かになった。使われているかのみならず、同じラインで製造している食品に対する言及まであって、徹底している。アレルギーの怖さが世間一般に浸透してきただろうか。

冨樫義博の「レベルE」という漫画に「アナフィラキシー・ショック」という言葉が出てきた時にアレルギーの怖さについて同級生に熱弁をふるった記憶がある。約四半世紀前の事になるから、その頃はまだ一般にアレルギーの怖さが浸透していなかった。この二十数年で状況が進展したのである。

アレルギーとは異なるが、「犬にキシリトールを与えると危ないかもしれない」なんて話も結構最近の話なのだろう。数年前のブログで「獣医さんに訊いたらご存知なかった」的な記述を見掛けた。まだまだ最近の知見のようだ。確かに私も、犬向けの歯磨きガムにキシリトールが含まれていた話を目にした記憶があるし。

こういう風に、人の知見は時とともに蓄積されていく。防げた筈のボツリヌス感染が起こってしまった事は大変悲しいが、これをしっかりと教訓として我々が脳に刻みつける以外ない。亡くなった赤ん坊もまた我々にとって「命を張って教えてくれた偉大な先人」のうちのひとりなのだから。


…というモードの私なので、ヒカルのアレルギーは大丈夫なのかと大変に心配である。アナフィラキシー・ショックまではなくとも、甚大に健康を害するような事がないとも限らない。家族ともども、油断せず、しっかりと定期的に検査をしながら、先人たちからの恩恵を目一杯利用しまくって、日々を健康に過ごしてほしいのです。美味しいものを食べてこその、人生なのです、からね。(CV:三上枝織)