無意識日記々

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140字はいつでも無限の入り口に

@utadahikaru : 子供の頃、コーヒー牛乳をご飯茶碗に注いで、ロールパンを小さく千切って浸して食べるのがすごく好きだったのを急に思い出した 今食べてもおいしいのかな

こういうツイートには私本当に弱い。宇多田さんと言えば歌に「切なさ」を込められる事で有名だが、そこには常に分厚い悲しさや愛しさを伴う。胸を締め付けるような、と。しかし、こういう呟きの時に来る切なさは何も伴わない。悲しくもないし嬉しくも愛しくもない。ただただ懐かしく、そして今、私(たち)が失っているものがそこに表現されている。「もう、ない。」―ただそれだけの感慨である。それについて悲しくなる事もできるし落ち込む事もできるし、楽しかったこども時代を思い出して微笑む事もできる。でも、その何れをしなくても、ピュアな切なさだけは残る。「あぁ、もうないんだ。」という、ただそれだけの感情。

小さい頃の感覚を思い出して、『今食べてもおいしいのかな』と問う。読点は使っても句点は使わないんだな。ヒカルもまた、それが失われた感覚である事を知っている。

歳をとると、はたと困るのだ。今感じている感覚が、たった今生まれた感覚なのか、ただ過去の感覚を思い出して、記憶から取り出し直して味わっている感覚なのか。つまり、今在る私の感情は既に思い出に過ぎず、私の心にはもう新しい感情は生まれないのか、と。

「たった今生まれた感覚」に、小さい頃は疑問なんて持った事はなかった。常に出会うものは新しく、どれも初めてなのだから、心に生まれる感情や感覚もまた常に新しく初めてのものばかりだった。

今はもう、何に出会っても、そうやって生まれた昔の記憶を参照しているに過ぎないのではないかと不安になる。要するに既に自分は哲学ゾンビなのではないかと。

クオリアの味は変わらない。今記憶を取り出しても同じ味がする。ヒカルがロールパンの欠片をコーヒー牛乳に浸して食べようという時の高揚感を、ヒカルもたった今しっかり感じ取る事が出来るだろう。それが、今コーヒー牛乳とロールパンを目の前に持ってきても何らその高揚感と関連性がない可能性が存在する事も、ヒカルは知っている。一方で、その時と同じように美味しく感じ、こうやって食べるのが好きだと感じれるかもしれない可能性が存在する事も知っている。しかしそれは、本当に「今」の感情なのだろうか。ロールパンの欠片をコーヒー牛乳に浸す事で小さい頃に感じた感情をただ思い出しているだけではないのか。

3歳の誕生日の時にナカムラ屋(そういうおもちゃ屋さんがあった)で1500円のプレゼントを買ってもらって大層喜んでいた自分の気持ちを、今でも克明に覚えている。そのおもちゃは、買う前からも買った後も大層お気に入りで、ビスをなくそうが縁が磨り減ろうがセロテープで止め輪ゴムで縛ってこれでもかと遊び倒した。何がそんなに気に入っていたのか今となっては、いや、当時から既にわかっていなかったが、その度を越した愛着だけは記憶に刻まれている。そのおもちゃを今目の前に提示されたとしても多分全く遊ぼうとしないだろうが、その愛着という感情の記憶の想起には大変な助けになるだろう。それはもうただただひたすら、懐かしい。

もしかしたら人は、ここまで来てしまうと、感情を取り戻したいが為に記憶を消し始めるのかもしれない。記憶が蓄積されていく一方では、「今」の感情が、もうどこにも無くなってしまうから。「今」やる事が、過去の感情の想起だけになってしまうから。「今」を取り戻したい。無意識の下の下で私がそう思った瞬間に、私は老い始める。


それに対して「怖い」と感じていると、思ってくれていい。だから、私は常に新しく楽譜を書きたがる。もっと恐ろしいことに、ごくたまに、まだまだ「今まで感じた事のない感情」を楽譜から与えられる事がある。勿論一方で、「全く忘れていた幼い頃の感覚」もまた、楽譜は与えてくれている。ちょっと、未だに信じられない。知っていたけど忘れていた事も、未だに知らなかった事も、あそこには両方埋まっている。それはもう、楽しくて仕方がない。私はおもちゃを買ってもらった3歳の誕生日にも生きているし、2017年の今草臥れたおっさんとしても生きている。それは、涙が出るほど嬉しい事だ。

ヒカルが次の次に出す新曲と、それを収録したアルバムは紛れもなく傑作である。期待して待ってていい。私はコーヒー牛乳に浸したロールパンの欠片から、その事を教えて貰える人なのだった。