無意識日記々

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パッセージ/passage

『道』という名の歌において『It's a lonely road』という歌詞が出てくるのは違和感がない。roadとは道の事なんだから当然だ。何の不思議もない。そしてそれに『(But) I'm not alone』という歌詞が続くのも流れとしてはわかる。lonelyとaloneが似た意味だからだ。どちらも孤独を意味する形容詞loneからの派生語だからだ。

しかし、『It's a lonely road』に続くもうひとつの歌詞が『You are every song』なのは解釈が難しい。ここを流れよく邦訳するのは至難の業だ。「寂しい道です、どの歌もあなたです」では、何の事かわからない。


そこで、ちょっと視点を変えてみる。ヒカルの中では、「道」とは「歌」の比喩になっている部分があるのではないか、という仮説を立ててみるのだ。

この仮説を思い立った原因は『Show Me Love (Not A Dream)』だ。この歌の歌詞に『私の内なるパッセージ 内なるパッセージ』という歌詞が出てくる。直前に『初めて自力で一歩を踏み出す』という歌詞がある事からこの『パッセージ』とは「通る道」「通り道」といった意味が付される事が多い。つまり、自分で歩いていく道筋を自らの内側に見いだす、という意味だ。これが通常の解釈である。他の個所に『紫の信号が点灯って思考停止』という言葉があるが、頭の中で起こる事(思考)が道を塞ぐ事を意味する信号によって妨害される(停止)という意味からも、内なる思考が前進する過程を通り道(『パッセージ』)としてイメージしている様がみてとれる。

一方、パッセージという単語には『楽節』という意味もある。メロディーとかフレーズといった事だ。つまり、ここでの『パッセージ』には、ヒカルが内側から生み出す音楽や歌の事も意味として重ね合わさっているのではないか、という風にも解釈され得る。

実際、『Show Me Love』を「曲作りの苦悩を歌った歌」だと解釈すれば様々なフレーズ(パッセージな!)に合点がいく。

まず『築き上げたセオリー忘れよう 山は登ったら降りるものよ』というのはまさに当時人間活動宣言をした心境を吐露したもので、これまでの音楽創作の方法論に限界を感じ始めた事を素直に綴っている、と解釈して差し支えなくなるし、『逃げたら余計怖くなるだけだって 分かってはいるつもり』というのも、締切に追われて折れそうな心について歌っているのだと思えばぐっとくる。無理な話ではない。

そう考えると『私の内なるパッセージ』が『It's all in my head』だというのはもう「そのまんまやんけ」という感想しか出てこない。「私が生み出すメロディーは総てこの頭の中から」ってもう「そりゃそうだろ」と言うしかない。パッセージを歌の事だと解釈した途端、この歌の歌詞がぐっと身近に感じられるのだ。勿論「パッセージ=通り道」の解釈もそのまま生きている。

であるならば『道』における「道/road」もまた音楽や歌、メロディーやフレーズの比喩になるのではないか、と考えたくなってくる。では、みていこうか…と思ったのだけど少し長くなってしまったので続きはまた次回からで。