無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

#大空で抱きしめてを聴き変える

真夏の通り雨』がリリースになった時、かなり早い段階で「歌詞がダブル・ミーニング」と指摘して不興を買った。不倫の影がちらつくと歌に没頭できない、と。ごもっとも。その節はすいませんでした。

まぁ、後にヒカルがインタビューで「若い子と」と肯定的な発言をしてくれたので私の方は救われたのですが、リスナーの夢を壊しちゃいけません。邪魔しちゃいけません。その人にはその人の世界があるのですから。

その"ダブル・ミーニングぶり"がおぞましい程に本質を突いているのが同曲を畏怖の対象たらしめているのだけど、今日はその話じゃなくて。

今回も懲りずにリスナーをガッカリさせるかもしれない話をしてみようとしている私がここに居ますよ、とそれが言いたかった。ホント懲りないな。ちょっとは懲りろ。

という訳で、まだまだ『大空で抱きしめて』の歌詞が新鮮に響いている人は、今回から2回?かまぁそれ位の日記は読まないでください。歌詞の描く風景が変わってしまいますので。まぁ『真夏の通り雨』ほどドラスティックではないので、あれが大丈夫だった人は大丈夫だと思います。かなり地味ぃな話でもありますし。

さて。口調を戻してその本題に入りますか。

**** *****


長年のファンの皆さんの中になら、元々のヒカルの性格からすると『大空で抱きしめて』はえらく自分の願望や欲求をストレートに表現するなぁ、と思った方が居るのではと思われる。私もその1人。他者に期待せず、自力で出来る事は全て自力で乗り越える(たまに抱えすぎて乗り越え切れずに倒れる)のがヒカルの生き方。他人に対してあれをして欲しいやらこれをして頂戴やらと要望を出す姿は、なんというか新しいし、今までになかったなぁと。何しろ、『お母さんに会いたい』という本音な願いの言葉を捻り出すのに12年近くかかった人だ。これですら他人への要望とまではいえず、自分から会いに行く能動性で対処できるのだから。

それが『大空で抱きしめて』はどうだ。抱けとかキスしろとかいやはやもう。やっぱりお母さん相手だと甘えたくなるのかね、唯一人生で期待してた相手がお母さんで、その人が居なくなってしまったから…

…ん? 待てよ? 本当にそうだろうか。我々は何か勘違いをしていないだろうか…?という話からまた次回。あと一回じゃ収まらないかな? まぁ、頑張って書いてみます。読者がたとえ1人も居なくても(笑)。