無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

そもそもの聴く態度を変えろと

『大空で抱きしめて』と『Forevermore』の2曲、発売時期が近い事もあり昔でいう両A面シングルのように受け止めているが、どうもこういつもと違う感覚に戸惑っている。

昨年の『真夏の通り雨』と『花束を君に』は、わかりやすかった。こちらの2曲、曲調という面では陰と陽かという程対照的であったが、2曲を続けて聴くと「不幸に対して絶望に打ち拉がれていたが徐々に立ち直ってゆく物語」としてすんなり聴けた。両A面シングルとして捉えても、対照的であるが故にわかりやすかった。

『大空で抱きしめて』と『Forevermore』は、曲調も随分異なるが、それ以上に、そもそもこちらの"音楽に対する接し方"自体を別々にするよう要求しているようにみえる。

『大空で抱きしめて』は異様な曲である。近所のほのぼのポップソングで始まったかと思いきや大空に飛ばされて挙げ句大宇宙に放り出されるような、"聴き手が翻弄される"楽曲である。「…あれ?……あれれれ?」と言っている間に主人公の"しんの(真の・芯の)かんじょう(感情・勘定)"に巻き込まれてゆく。頭の中の世界の話である。

他方、『Forevermore』はリズムの起伏はあるものの、終始曲のムードは一定していて、イントロのストリングスさえ受け入れられば何も考えずに楽しめる。歌詞の卓抜さとか編曲の妙など穿てば幾らでも頭を使った知恵の後が散見され得るが、それもあクマでリスナーが心おきなくこの曲にノれるように、だ。安心して対峙できる楽曲といえる。

頭を掻き回される曲と、どんどん身体がノっていく曲。ほんに、曲調以前に、楽しみ方が対照的な2曲である。しかしテーマは結局貫かれていて、会えない人への思いの強さを歌った2曲でもある。この乖離と連続性の同居が奇妙な違和感というか"こちらの不慣れさ"を暴き出す。どちらも楽曲に魅了されているという点は共通しているのだが。

暗い曲と明るい曲を続けて聴くのにも抵抗のあるケースが少なくないのに、そもそもの聴き方を変えて接しないといけない2曲が続いた、というのは結果論ではあるがヒカルの芸風の幅広さを知らしめる事となった。正直、それがいいことかわるいことか判断できないくらいに戸惑っている。ライブで演奏する時は2曲とも演奏順に細心の注意を払わないといけないかもしれないね。